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黒澤明監督版『東京オリンピック』はなぜ実現しなかったのか 前編

(c)Photofest / Getty Images

黒澤明監督版『東京オリンピック』はなぜ実現しなかったのか 前編

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黒澤明、オリンピック記録映画への抱負を語る



 1959年5月26日、国際オリンピック委員会総会で5年後の夏季オリンピック開催地が東京に決定した。そこから、大会の記録映画製作を黒澤明に依頼された経緯は諸説ある。『キネマ旬報』(63年10月上旬号)によると、1959年秋、東京オリンピック大会組織委員会事務総長の田畑政治は、ニュース映画や記録映画の製作を行う日本映画新社(日映)の常務・堀場伸世に記録映画の製作を内々に打診。堀場は通常の記録映画とは一線を画する話題作にするために、黒澤明に監督させてはどうかという奇策を思いついた。日映は東宝の系列会社ということもあり、堀場は当時の東宝副社長・森岩雄に相談し、黒澤への橋渡しを頼んだという。


 ところが、田畑の近いところに居た者の回顧では少しニュアンスが違ってくる。


「東京オリンピックの記録映画を誰に製作してもらうかについては、ヴェネツィア国際映画祭グランプリ受賞の黒沢明監督以外にない、田畑さんは早くからそうねらいをつけていた。(略)一九六〇年(ローマ五輪の年)の四月、田畑さんは東宝に出向いて藤本真澄専務を訪ね、この旨を依頼、黒沢監督に打診してもらうことにした」(『評伝 田畑政治 オリンピックに生涯をささげた男』杢代哲雄著/国書刊行会) 


 これが東宝の森の回顧になると、さらにその間の事情は異なってくる。


「“オリンピック”が昭和三十九年に東京で開催されることになるという情報が流された時、私はこの映画化に東宝をあげて取組むべきであると思いついた。(略)そしてこの仕事には黒沢明を起用して、世界的な作品に仕上げたいと考え、日本のオリンピックの組織員の田畑政治に相談したところ、田畑さんも大賛成で、是非やろうではないかと、むしろ私よりも田畑さんの方が熱心になった位である」(『私の藝界遍歴』森岩雄著/青蛙房)


 さらに「黒沢監督を推薦したのは東和映画の川喜多(長政)社長だといわれている」(『報知新聞』60年7月8日)という説まであり、黒澤をオリンピック映画に起用することを発案したのは堀場伸世なのか、田畑政治なのか、森岩雄なのか、はたまた川喜多長政なのか。芥川龍之介の『藪の中』を原作に黒澤が撮った『羅生門』(50)を地で行くような話だが、前掲『キネマ旬報』には、1959年の暮近くに記録映画製作についての最初の懇親会が開かれ、黒澤への監督依頼が正式に決定したとあり、この席で田畑は黒澤をよく知らなかったため、周囲から「自分の子どもにでも訊いてみなさい」と、たしなめられというエピソードが記されているが、これも真偽は定かではない。


 では、ここからは正確を期すために当時の新聞報道を基に動きを追ってみよう。1960年7月7日、御茶ノ水の体育協会にオリンピック東京大会組織委員会会長の津島寿一、田畑、そして『悪い奴ほどよく眠る』(60)を撮り終えたばかりの黒澤が揃った。マスコミを前に正式に黒澤の監督就任が発表されたのだ。この席で黒澤は、「むかしからスポーツが好きで、一流選手の迫力ある体をカメラに収めてみたかった」(『東京新聞 夕刊』60年7月7日)、「オリンピックといえば世界で一番の役者がそろうわけだからやりがいのある仕事と期待している」(『夕刊 毎日新聞』60年7月7日)と抱負を語っている。一方で、記者から『民族の祭典』について問われると、「参考にしていきたいが、一つの民族のデモンストレーションとせず、オリンピックの精神を基調にしたものをつくりたいと思っている」(『報知新聞』60年7月8日)などと未来志向の新たなオリンピック映画を作ろうとする意欲を見せた。


 この年は、黒澤にとっても新たな時代の幕開けでもあった。前年に設立された黒澤プロダクションは、『隠し砦の三悪人』(58)が大幅にスケジュールと予算が超過したことに業を煮やした東宝が黒澤を独立させ、今後は黒澤プロとの提携で製作を行うことでリスクを背負わせることになっていた。もっとも製作費はこれまでと同じく全額東宝が出資し、2年間で3本の作品を製作することとし、儲けは東宝と黒澤プロで折半することになっていたので、早く、安く、儲かる映画を作れば黒澤プロも潤う――ということになっていたが、興行が振るわなかった『悪い奴ほどよく眠る』のような作品を撮れば、たちまち黒澤プロは赤字に転落する。海外との合作の話も持ち込まれていた時期だけに、オリンピック映画の監督は、黒澤プロの経営上からしても好ましい国家規模のプロジェクトだった。


 ところで、黒澤はこの会見の席で、「東京オリンピックの時には技術もいろいろ進歩しているだろうし、表現も豊かになっているだろう。四年先の映画がどんなふうになっているか見当もつかないくらいだ」(『夕刊 讀賣新聞』60年8月4日)と発言している。この時点で終戦から15年が経っていたが、その間に映画はモノクロからカラーが主流となり、さらにシネマスコープを用いた大型映画も製作され、映画は次々と新たな形式へと生まれ変わっていた。映画会社に身を置く映画監督にとっては、その新しい技術に向き合うことは必要不可欠でもあった。


『隠し砦の三悪人』で初めてシネマスコープを導入したばかりだった黒澤も、まだカラー撮影には踏み出せていなかった。しかし、オリンピック映画では、「大型、小型スクリーン用、カラー、白黒など数種類をとることになろう」(『朝日新聞 夕刊』)と、異なるフォーマットの映画を作る構想を明かしている。結果として黒澤初のカラー映画は、ここから更に10年後の『どですかでん』(70)まで待たねばならなかっただけに、黒澤版『東京オリンピック』が実現していれば、初のカラー映画になっていたことは間違いない。

 

それにしても、少なくとも4種類の別フォーマットで1本の映画を撮ろうというのは、想像するに煩雑な作業が待っている。これは単に同じ撮影素材を現像段階でカラーやモノクロにするのではなく、撮影時にシネマスコープサイズ用の撮影、スタンダートサイズ用の撮影、カラー撮影、モノクロ撮影と別個に撮影することを意味しており、構成は同じになるとしても、編集に凝る黒澤のことだから、別フォーマットで4本作ることになるだけに細部はかなり違ったものになっていたかもしれない。もし実現していたら、カラーはもとよりモノクロでも黒澤らしい迫力のある映像が生まれていたのではないだろうか。



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