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『怪物』、見終わった瞬間から何かが始まる映画【えのきどいちろうの映画あかさたな Vol.29】

©2023「怪物」製作委員会

『怪物』、見終わった瞬間から何かが始まる映画【えのきどいちろうの映画あかさたな Vol.29】

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 『怪物』、面白かったです。坂元裕二さんはカンヌ映画祭の脚本賞をもらいましたけど、大変に納得というか、逆にカンヌの審査員にも日本の地方都市の、例えば教育現場のリアリティみたいなもんが通じるんだなぁと感心しきりです。この映画のホンは本当に研いで研いで、切っ先がちょっとでも触れたら血が出るくらいシャープになっている。感情が揺さぶられまくりです。役者さんが好演揃いなのもあって、めちゃくちゃ力のある表現になっている。ラストまでグイグイ持っていかれてノックアウト。グウの音も出ません。


 映画館の帰り道も反芻して、電車のつり革につかまりながら考えて、最寄りの駅の改札を通過しながらため息をついて、夜道で考え、部屋に帰って電気つけながらシーンを思い出す、そんな映画があるでしょ。あれです。結局、何日も思うともなく思い、考えるともなく考えることになる。


 それはやっぱりいい映画だってことですね。見終わった瞬間、すべてスカッと忘れて昂揚できる映画もあるけれど、見終わった瞬間から自分のなかで何かが始まる映画もある。僕はこの映画評の原稿になかなか着手できませんでした。どう書けばいいかなぁと机の前でうんうん唸っていた。どう書けばこのズシリと重たい手応えを伝えられるか。せっかく書くんだから一人でも多くの人に届くといいですもんね。一人でも多く映画館に足を運んでもらいたい。


 原稿に着手できないでいる間、僕の頭に浮かんでいたのは亡くなった知人、さくらももこさんから聞いた言葉です。さくらさんとはご飯食べたり、お宅に亀を見せてもらいに行ったり、まぁ親しくさせてもらってたんですけど、一度何かの拍子に「人はわかったり、わかってもらえたときに泣きますよね」って言ったんですよ。これ、すごい言葉でしょ。わかること、わかってもらえること。人間は社会的な存在なんですね。僕もその両方のタイミングで泣いたことがあります。場合によってはこらえきれず号泣したこともある。


 で、何で「人はわかったり、わかってもらえたときに泣きますよね」が成立するかなんですけど、それはやっぱりわからない、わかってもらえないからです。無理解。気持ちが通じない。だから、人の心はわりといつも張りつめている。張りつめて、ストレスに耐えている。『怪物』の第1のシークエンスで、シングルマザーの早織(安藤サクラ)が一人息子の湊(黒川想矢)のために奔走します。教師の保利(永山瑛太)の暴力行為やいじめを糾弾し、校長(田中裕子)に担任を変えてくれと迫ります。観客はその切実さ、必死さに打たれる。そして、木で鼻をくくったような対応しかしない学校側に怒りを覚える。何という無理解。何と気持ちが通じないことか。教師たちは機械なのか、人の心がないのか。



『怪物』©2023「怪物」製作委員会


 だけど第2のシークエンスで、同じ話が教師側の目線で描かれるとまったく違うものが見えてくる。担任教師の保利はむしろ率直で、善意にあふれた「人の心を持った」先生です。無理解で、気持ちが通じないのはむしろクレーマーじみた親や、ことなかれに徹して火消しをはかる学校側です。そのうちにマスコミが騒ぎだし、保利は孤立していく。


 その後、更に第3のシークエンスがあり、同じ話が別の視点から語られるのですが、つまり、構造は黒澤明の『羅生門』(50)です。ひとつの出来事を3つの異なる視点から描き、掘り下げる。『羅生門』の原作は芥川龍之介の『藪の中』です。そこでは真相は藪の中ということになる。その点だけは違って、『怪物』では第3のシークエンスで真相らしきものが描かれます。が、別に謎解きのミステリじゃないから、それで何かが解決するわけじゃない。


 それよりも真実とか正しさといったものの危うさです。シングルマザー早織の目で見た世界と、担任教師保利の目で見た世界、それぞれの真実の何とかけ離れたことか。これはそれぞれに正しいのです。それぞれの真実を抱えて、相手の無理解に呆れ、気持ちの通じなさに苦しんでいる。


 カンヌ国際映画祭から帰国しての凱旋記者会見で坂元裕二さんはこうコメントしている。「クルマを運転中、赤信号で待っていました。前にトラックが停まっていて、青になったんですが、そのトラックがなかなか動き出さない。よそ見をしてるのかなと思ってクラクションを鳴らしたけど、それでもトラックが動かなかった。ようやく動き出した後に、横断歩道に車椅子の方がいて、トラックはその車椅子の方が渡り切るのを待ってたんですが、トラックの後ろにいた私には見えなかった。それ以来、自分がクラクションを鳴らしてしまったことを後悔し続けていて、世の中には普段生活していて、見えないことがある。私自身、自分が被害者だと思うことにはとても敏感ですが、自分が加害者だと気づくことはとても難しい。それをどうすれば加害者が被害者に対して、していることを気づくことができるだろうか。そのことを常に10年あまり考え続けてきて、その1つの描き方として、3つの視点で描くこの方法を選びました」(日テレNEWSより)


 そうなんです、それぞれの真実、正しさを抱えた者には「見えないこと」があるんです。それぞれの真実、正しさには切実さ、切迫感がありますから、相手や周囲の無理解にさらされるとどちらも自分のことを「弱者」「被害者」だと感じるようになる。ここが本当に難しいのです。どちらも「弱者」「被害者」だったら泥仕合です。双方ともピーンと張りつめた緊張状態に置かれ、ストレスにさらされる。


 「人はわかったり、わかってもらえたときに泣きますよね」。さくらももこさんの言う通りなのです。わかったり、わかってもらえたりすれば張りつめた緊張が解けて、心は晴れやかになる。だけど、人間には「見えないこと」があるんですね。トラックの向こうに隠れてる、横断歩道を渡る車椅子の人。


 認識しなければ、あるかもしれないなぁとわかっていなければ「見えないこと」。


 だから全体の構造として『怪物』は「トラックの向こうに隠れてる、横断歩道を渡る車椅子の人」に観客が気づかされる映画と言っていいかもしれません。「あぁ、自分に『見えないこと』がある」と思うきっかけですね。だから僕はラストまで見て、さくらさんの言う「わかったとき」の方で泣きました。自分は何も見えてないなぁと思いました。



文:えのきどいちろう

1959年生まれ。秋田県出身。中央大学在学中の1980年に『宝島』にて商業誌デビュー。以降、各紙誌にコラムやエッセイを連載し、現在に至る。ラジオ、テレビでも活躍。 Twitter @ichiroenokido




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『怪物』

6月2日(金)全国ロードショー

配給:東宝 ギャガ

©2023「怪物」製作委員会

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