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深田流演出術、小説版との関係性。深田晃司監督『海を駆ける』 ~後編~【Director’s Interview Vol.3.2】

深田流演出術、小説版との関係性。深田晃司監督『海を駆ける』 ~後編~【Director’s Interview Vol.3.2】

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文化の違いやキャラクターの変化を描いた衣装コンセプト



Q:インドネシアで映画を撮った影響がはっきり感じ取れるのがサチコの衣装です。最初は短パンを履いて生足を出しているんですが、滞在しているうちにロングスカートやジーパンになりますよね。セリフでは語られませんが、あれはサチコが地元の人に配慮するようになったという描写ですよね?


深田:まさにその通りです。サチコにはひとりだけ異物として登場して欲しいという狙いがあったので、衣装の打ち合わせの時から考えていました。これもある程度インドネシアの慣習に詳しくて、しかもアチェっていう場所がすごくイスラム教の戒律が厳しい地域だっていうことを知っていないとわかりづらいし、別にわからなくてもいいやって感じなんですけどね。


 例えば首都のジャカルタだと、サチコのショートパンツ姿も全然問題ない。でもアチェでサチコを足がはっきり見える形で登場させたいというのは、現場でも議論になったんです。現地のコーディネーターが、ロケが止まるかも知れない、イスラム警察がいるから、そんな恰好の人が歩いている時点でとがめられるかも知れないと言われました。




 実は津波で陸に残された電力船のシーンでも、一回現場で止めらました。現地のコーディネーターからその恰好は危ないかも知れないと。それもサチコではなくイルマの衣装が問題になったんです。スカートがちょっと薄くて足が透けて見える、だからスカートの下に何か履いて欲しいと言われました。本当にそれくらい厳しいんです。


Q:もう風紀委員が付きっ切りみたいな状態なんですね。


深田:はい。でもサチコの最初のシーンだけはショートパンツにさせてくれとお願いしました。その後は現地に配慮して、肌をなるべく見えないように衣装が変わっていく。終盤でデートに行く時にはスカート姿になって、最後のサバンという土地は観光地で規制も緩いから、またショートパンツに戻る。衣装の人とも結構議論したところではあるんで、気づいてもらえると嬉しいです。


 あと、衣装だけで何かの変化を表現するのが自分でも好きなんだなと思います。『 淵に立つ』(2016)で赤い服を使ったのは、人によっては見え見え過ぎると言うかも知れませんけど、象徴的な表現として使いましたし。実は理想は『 風の谷のナウシカ』(1984)なんですよ。ナウシカの衣装の演出って本当によくできていて、彼女の立場が変わっていく度に服も変わり、最後は王蟲の血を浴びてピンクの服が青くなって伝説が完成する。着ているものだけで立場や動きの変遷が視覚的にわかるんです。気づかなくても、無意識的には伝わるはずで、映像表現の強さだし、さすが宮崎駿だと思います。


Q:無意識といえば、サチコがズケズケとした口調で「何で?」っていうセリフには、無意識の差別意識が現れています。


深田:それも象徴的ですね。ひとつは、サチコがタカシに対して「何で国籍を日本でなくインドネシアを選んだの?」っていうところで。やっぱり日本人ってどっかにアジアの中で欧米的に進んでいるっていうエリート意識がありますからね。自分たちは名誉白人であるみたいな。サチコも、別に悪意はないんだけど、日本語が喋れて、国籍を選べるんだったら、お母さん日本人だし日本人がいいじゃんって思ってしまう。




Q:その「何で?」が、デート相手が来ないかも知れないというすごくパーソナルな局面でも、無意識の差別みたいなものが現れる時でも、同じようなテンションでさらっと出てくるのが面白いと思いました。


深田:その辺りのことはもっと指摘してもらいたいところです(笑)。そういう日本人が持っているエリート意識みたいなものを、社会の大問題として提出するわけじゃないけれど、作品に込めたいという意図はありました。ただこれくらいの匙加減で描くと、批評とか評論とかでも結構スルーされてしまうものなんだなという気持ちはあります。ただ映画が上手くできているかどうかの話でもあって、自分の至らなさもあるかも知れないです。


 自分の中で、ある種の人種問題とか差別意識を描いた作品で、ここ20年で最もエポックだったと思っているのは平田オリザの戯曲「ソウル市民」なんです。日本占領時代のソウルが舞台で、文房具屋を営む移住した日本人家族の話なんですよ。当然、植民地や差別の問題が大テーマとして背景にあるんですけど、演劇の中でそれを問題として語るシークエンスはないんですね。


 「ソウル市民』のアプローチがすごくクレバーなのは、登場人物で韓国人に対して悪辣な差別をする人はひとりもいない。むしろ、当時としては想定される限り最もリベラルな日本人として描かれている。でも、言葉の端々に差別意識がものすごく潜んでいるんですね。例えば日本文学の話ですごく盛り上がって、韓国人のメイドに「韓国だってがんばればこういういい文学が書けるわよ」みたいな言い方をするんですね。親しみを込めて。そういう無意識化の差別意識があぶりだされる構造になっていて、平田オリザはそれを26歳くらいの時に書いたっていうのが衝撃なんですけど。


 悪い人がいるから差別があるんじゃなくて、誰もが心の中で差別意識を持っているかも知れない。そういうところがサチコの「何で?」だと思うんですね。今回は自分なりにそういうアプローチをしているつもりなんです。サチコ役の阿部さんが、変に意味を込めないで、本当にフラットに「何で?」って言ってくれたのもすごくよかったと思います。



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