ジョン・ファヴロー監督作としてのエピソード

『ヤング・シェルドン』第1話は完成版のエピソードでありながら、「Pilot」というタイトルを冠している。本来テレビシリーズで「パイロット」と言えば放送前の試験的エピソードを意味するが、そんなタイトルが示すようにこの第1話は導入であると同時に、シリーズ全体の「設計図」として機能している。日本語タイトル「9歳の高校生」もまた、作品のフックとして明確な役割を果たしているだろう。
その設計図の中には、天才児シェルドンの孤独、家族それぞれとの距離感と、基本的な関係がすでに描き込まれている。それらがジョン・ファヴローの、未成熟な人々に向けられた温かい眼差しによって束ねられているからこそ、本作が単に『ビッグバン★セオリー』のスピンオフに留まらないことが、第1話の時点ですでに予感されるのだ。
最初にも書いたように、原典と同じ形でのシットコム方式を採っていないことがなにより大きい。1989年という時代設定、両親に子ども3人、のちに登場する祖母、中流家庭の小綺麗な家と、これだけ見れば実に往年のシットコムらしい要素が並んでいることがわかる(天才的な9歳児に毎回コテンパンに言い負かされる高校教師たちや、「好敵手」である教会の牧師を加えてもいい)。本当にそのまま笑い声の流れるシットコムにしても十分成立するような気がするが、重要なのはシットコムの外観や設計を保持したままシングルカメラの家族ドラマへと置き換えていることだ(分類上では本作も広義にはシチュエーション・コメディ=シットコムに含まれる。必ずしも笑い声が流れるものだけがシットコムではない)。『ビッグバン~』の世界観を引き継ぎながら、別個の作品として確立されているのはそのような捻りによるものではないだろうか(本作からさらに派生したシェルドンの兄ジョージーとその妻マンディの結婚生活を描く『Georgie & Mandy's First Marriage』(24~)は再びお馴染みのシットコムに戻っているのがまた興味深い)。
かりにシェルドンとメアリーの応酬の上に録音された笑い声がかかればきっとその印象はまるで違うものになっただろう。しかし本作は決してシェルドンを笑いものにはしない。原典で繰り返しギャグとして消費されてきた、奇行の目立つ大人のシェルドンというキャラクターを、本作は真摯に掘り下げ、ディテールを与え、ひとりの少年のリアルな物語に変換している。
もちろん、ぼく自身は原典の軽妙さも、ジム・パーソンズ演じる大人のシェルドンも大好きだ。にもかかわらず、本作におけるそれらの一種の「答え合わせ」が野暮に感じられないのは、作品が単なる設定の補完ではなく、そのような姿勢の上にあるからだろう。そしてそれは、シェルドンの過去を描くうえで、ジョン・ファヴローの懐の深さや得意とする題材としてぴたりと合致したのではないか。
原典では断片的にしか語られなかった父ジョージの人物像が立ち上がり、シェルドンとどのような関係を築いていたかが描かれるのも、これまで幾度となく父と息子の関係性を描いてきたファヴローの関心と深く重なる部分だ。父親の失職の経緯を知り、そこに初めて自分との共通点を見つけたシェルドンは、同じ日の夕食の席で祈る際、ついに父の手を握る左手から手袋を外す。序盤から彼の潔癖症を象徴していた手袋が外されたことが大きな心境の変化、父を見る目が変わったことを十分物語っている。ジョージは祈りの時間であるにも関わらず目を開けたまま、驚くべき行動をとった息子を見つめ、そこに大人シェルドンであるジム・パーソンズのナレーションが重なる。
「初めて父の手を握った瞬間だった」。様々な形で父と息子を描いてきたファヴローが第1話を監督している理由は、この瞬間にあるのかもしれない。
『ビッグバン~』を観て、シェルドンのキャラクターに触れたことがあるひとには、ひとりの少年がいかにあのシェルドンに成長していったかを本作で観てほしいし、そうでないひとにも単体の普遍的な家族ドラマとして楽しめるのではないかと思う(その上で『ビッグバン』に興味を広げてもらえたらファンとしてもうれしい)。いずれにせよ、ひとつのエピソードとしても、後のシリーズを俯瞰する入り口としても観ることができるこの第1話を、ジョン・ファヴロー監督作のひとつとして勧めたい。
イラスト・文:川原瑞丸
1991年生まれ。イラストレーター。雑誌や書籍の装画・挿絵、絵本など。映画のイラストレビュー等も多数制作中。