想像と創造はどちらも大事(物語の結末に触れています)
エメットはついにおしごと大王と対決するが、レゴ世界の外側に落っこちてしまう。するとそこは現実の世界。人間の男の子が巨大なレゴのジオラマで自由に遊んでいる。自動車は新たなメカに組み替えられ、おしごと大王の放った兵器と戦っている。エメットたちとおしごと大王の戦いはこの少年が作り上げたものだった。そこに帰宅した父親が現れ、自分の完璧なジオラマやコレクションを好き勝手に組み替えている息子を叱りつけた。おもちゃで遊びたいと訴える息子に、父親は「これはおもちゃではない、洗練された結合ブロックだ」などとわけのわからないことを言う。しかし、この父親のスタンスに、なにか身に覚えがあるのは確かだった。ぼく自身もこういう大人になってしまうのではないかという恐怖。
やがて父親は子どもが勝手に遊ばないよう、完璧なジオラマを完成させるために接着剤でレゴを固定しようとするが、ふと息子が作ったものが目に入ってくる。その独創的な出来に、「雲の上の楽園」のような自由さを思い出したのだろうか、彼はいつしか見入ってしまうのだった。
レゴ世界に帰還したエメットは、おしごと大王に歩み寄る。「みんなはあなたが作ったものを受け継いで、そこから新しいものを組み立てたんだ」説明書通りに作る基礎があるからこそ、自由にものが作ることができる。それは現実世界の父子も同じで、父親の創造性に富んだ完璧なジオラマがあったからこそ、そこから息子は新しいものを作ることができた。おしごと大王と父親はそのことに気付く。エメットは大王を倒すのではなく、彼を認めることで戦いを終わらせたのだ。穏やかな表情になった大王とエメットはハグし、父と息子は一緒にレゴで遊び始めるのだった。
説明書通りに作ることも、自由に組み立てることも、どちらも肯定することで、改めてレゴは自由であることが示された。みんながみんな、独創的なものを作れるわけでもない。救われたのはおしごと大王や父親だけではなく、観ていたぼくもそうだったと思う。説明書通りに作ったきり飾ったままでも、それもレゴの自由さの内なのだ。もちろん、それで物足りなければ少しずつなにかを作ってみよう。説明書通りのモデルの一部を組み替えてもいい。それこそこの映画で描かれる想像と創造の両立なんじゃないかな。それはレゴだけに限らず、ほかの遊びに関しても同じことが言えると思う。
続編『LEGO ムービー2』は一体どんなふうにレゴ愛を刺激してくれるだろうか。いずれにせよレゴだけで作られた世界観は観ていて飽きることがない。
イラスト・文:川原瑞丸
1991年生まれ。イラストレーター。雑誌や書籍の装画・挿絵のほかに映画や本のイラストコラムなど。「SPUR」(集英社)で新作映画レビュー連載中。