愚かな親を破滅へと導く、子供の鋭い眼差し
『裁かれるは善人のみ』を除いた4作には、ある共通点が存在する。それは、物言わぬ子供の存在が、親の欺瞞を炙り出すという点だ。例えば『父、帰る』では、何らかの理由でずっと不在だった父親が12年ぶりに家に舞い戻り、突然、母親に強権的な態度を取り始める。すんなり受け入れる兄と違って、幼い弟は徹底的に反抗する。父はなんとかして「パパ」と言わせるため、威圧的な言動を募らせていき、やがては父と次男は徹底的な衝突を迎えることとなる。『ヴェラの祈り』では、家計に苦しむ男がせめてもの罪滅ぼしと、父の残した田舎のヴィラに家族を連れてきて、休暇を過ごす中、突如、美しい妻から違う男との妊娠を告白されたことで、妻の胎内に宿る小さな命に自身の男としての自信や価値を根底から否定されるような屈辱を味わい、尋常ならざる動揺を示すこととなる。『エレナの惑い』では勤勉であるがゆえに大富豪の後妻に収まったエレナが、無勤勉で自堕落な息子のために(というより、孫のために)、ある一線を越えてしまう姿を静かに描くが、最後にカメラを見つめるのは祖母の罪を知ってか知らずか、無邪気に微笑む赤ん坊の顔である。
そして『ラブレス』。これまでの作品の静かな作風と打って変わって、全編、離婚寸前の夫婦による、結婚相手への禍々しい呪いの応酬で貫かれる。理不尽な夫に従順で、本音を腹に飲み込み、何も言わないヒロイン像も一変し、この映画の母親役、マルヤーナ・スピヴァクは鋭くとがった眉、意志の強い顔で、夫の不甲斐なさを罵り、夫と似た子どもへの嫌悪を隠さず、自分が幸せになる権利を主張する。当然の事なことながら、夫役の造形も一変し、『父、帰る』『ヴェラの祈り』で威圧的な父親を演じた端正な二枚目俳優、コンスタンチン・ラブロネンコの鋭角的な体つきと対照的に、『ラブレス』の父親役のアレクセイ・ロズインは丸みを帯びた顔と体形で、若い妻から猛反発を食らう頼りない父親像を見せつける。
『ラブレス』©2017 NON-STOP PRODUCTIONS – WHY NOT PRODUCTIONS
そして、何よりも印象的なのは、両親にとって、自分がお荷物でしかないと知った息子役のマトヴェイ・ノヴィコフの寡黙な佇まいで、ほとんど言葉を発しないにも関わらず、親への不信を募らせ、絶望する子どもの様を凄まじい存在感で見せつける。後半、この子が失踪するのだが、前半の彼の眼差しが強烈であるからこそ、その不在が後半でどんどんと大きくなっていく。俳優出身であるズビャギンツェフ監督は『父、帰る』でも父親にとことん抗う子どもを登場させ、それがどこから見ても演技に見えないことから、どのような演出方法をとったのか毎回、大きな話題となる。
『ラブレス』©2017 NON-STOP PRODUCTIONS – WHY NOT PRODUCTIONS
ここにきて、我々評論家は愚かにも、冒頭のドストエフスキーをどうしても引用したくなる。
フロイトが書いたあのあまりにも有名な評論「ドストエフスキーの父殺し」で展開したように、ズビャギンツェフの映画の中では子供の鋭い眼差しが、愚かな親を破滅へと導く。これがロシアの伝統だというと、あまりにも乱暴だし、ズビャンツェフは政治的な暗喩についてあまり語らない監督であるから、本当は無駄な引用に違いない。でもついつい比較したくなるのか、アメリカでのインタビューを見ると、冒頭のロシアの文豪の名前が度々、質問の中に織り交ぜられる。
単に彼が言うように、シベリアの酷寒の地で育ち、6歳の時に父親と離別し、彼自身、離婚と結婚を3度繰り返して母の違う子どもを4人抱えているという、個人的な境遇からくる体験がそうさせているのかもしれないのに。