(c) 2017 Twentieth Century Fox
『パティ・ケイク$』〈ホワイト・トラッシュ〉の生き様を通して描く、新たなコミュニケーションの可能性 ※注!ネタバレ含みます。
〈ホワイト・トラッシュ〉映画としての『ロッキー』が描いたもの ※注!ネタバレ含みます。
1975年のアカデミー作品賞を受賞した『 ロッキー』は無名の人間が現実に抗い自己実現を果たす姿を描く点において、『パティ・ケイク$』と似通ったストーリーラインを共有している。また都市部で鬱屈する白人の生活を描いた点では〈ホワイト・トラッシュ〉映画の流れにも位置付けられる。シルベスター・スタローン演じるロッキーは冴えないボクサーだが、ひょんなことからチャンピオンのアポロと対戦するチャンスを与えられる。彼はその試合に全てをかけるが目的は勝利ではない。絶望的な戦いに自らを投じ、最後まで戦い抜くことで自分がクズ=「トラッシュ」ではないことを証明したいのだ。そして、その過程で彼が恋人や義理の兄、さらには彼を応援する街の人々とのつながり、コミュニティを構築していく様子が描かれる。よって、『ロッキー』では試合結果や、金銭的な成功は物語のラストで重要な意味を持たない。
では『パティ・ケイク$』で主人公が追い求めるのは何か?それは母との関係を再構築することだ。パティの母は娘を産む前にロックバンドでボーカルをとり、レコード契約まであと少しだった。しかし、そんな時にパティを妊娠、夫との関係も上手くいかなくなり、音楽への夢を諦めざるをえなかった。以来、バーで飲んだくれ、カラオケで酔っ払いたちに美声を聞かせる日々を送ることになる。母は言う「こんな自分になったのは、パティを妊娠してしまったからだ」と。子が母にそんなことを言われる辛さは想像に難くない。パティはそんな母をなじり、家から出たいと感情を爆発させる。しかし、彼女は母との関係を再構築することをラップを通して模索していく。この物語を駆動させる核心は、かように誰とでも対話のチャンネルを開こうとするパティのキャラクターにある。
『パティ・ケイク$』(c) 2017 Twentieth Century Fox
彼女はコミュニケーションが不可能かと思われる無政府主義の黒人青年や、仄かな恋心を抱くストリートのラッパー、さらに憧れの大物ミュージシャンとも音楽(ラップ)を通して果敢に繋がろうとする。それは多分に不器用で失敗を重ねる。しかし、コミュニケーションとは本来、どんな人とも器用に話せる能力のことではない。哲学研究者の内田樹はこう書いている。
「コミュニケーション能力とは、コミュニケーションを円滑に進める力ではなく、コミュニケーションが不調に陥ったときにそこから抜け出す力だ。」
コミュニケーション能力の高さとは、どうコミュニケーションをとれば良いのか、その手段がわからない相手と、それでもコミュニケーションをとろうとする姿勢のことである。パティはまさに作品内でコミュニケ―ションが成り立つとは思えない人々と果敢にチャンネルと開こうと試みる。その過程は、ドラマに心地よい緊張とドライブを生みだしていく。そしてコミュニケーション不調に陥っていた母親と、ラップを通して、新たな関係性を切り開くクライマックスのライブは圧巻である。人と人の間に新たなチャンネルが開く瞬間の感動を『パティ・ケイク$』は確かに見せてくれる。それは〈ホワイト・トラッシュ〉を通じてアメリカ映画が描いてきた「コミュニケーションの可能性」の新たな側面でもあるのだ。
文:稲垣哲也
TVディレクター。マンガや映画のクリエイターの妄執を描くドキュメンタリー企画の実現が個人的テーマ。過去に演出した番組には『劇画ゴッドファーザー マンガに革命を起こした男』(WOWOW)『たけし誕生 オイラの師匠と浅草』(NHK)など。現在、ある著名マンガ家のドキュメンタリーを企画中。
『パティ・ケイク$』
提供:フォックス・サーチライト・ピクチャーズ
配給・宣伝:カルチャヴィル×GEM Partners
公式HP: http://www.patticakes.jp/
(c) 2017 Twentieth Century Fox
4月27日(金)より、ヒューマントラストシネマ渋谷ほか全国ロードショー