サスペンス映画で機能する「告白」という仕掛け
そういえば、私は前作 『ヘンリー・フール』に関する記事の中で「この映画では物語の中心となる”詩”や”告白”をいっさい見せない。それはあたかもヒッチコック映画における”マクガフィン”のよう」と書いた。
通常だとこのマクガフィンという言葉は、スパイ映画における「秘密文書」や強盗映画における「宝石」など、いわゆる物語の要でありながら、それでいて観客がその具体的な中身を知らなくても成立する仕掛けのことを言う。
『フェイ・グリム』 (C)Possible Films, LLC.
この「告白」の中身を一切明かさないという演出上の仕掛けは、続編でも相変わらず踏襲される。そしていつしか、各国のスパイたちが入り乱れてそれを奪い合うという異常事態へと転じていく。先ほどこの映画がスパイ・サスペンスへと変貌を遂げたことを「驚くべきこと」と書いてしまったが、このマクガフィンという仕掛けから考えてみると、実は前作での使われ方が異色だったわけで、スパイ・サスペンスの中で炸裂させる今作のほうがヒッチコック以来受け継がれてきた伝統的かつ順当な取り扱い方と言える。
つまり2作目にしてこの「告白」は本来の機能を発揮する場所にきちんと回帰したことになる。これを知って臨むのと知らないのとでは、映画の味わいも大きく変わるはず。「ジャンル」で遊び、「仕掛け」で遊ぶハートリーの映画術に、我々はまたしてもニヤリとさせられるのである。