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『志乃ちゃんは自分の名前が言えない』不器用な青春を照らす“音楽”という名の光 ※注!ネタバレ含みます。

© 押見修造/太田出版 ©2017「志乃ちゃんは自分の名前が言えない」製作委員会

『志乃ちゃんは自分の名前が言えない』不器用な青春を照らす“音楽”という名の光 ※注!ネタバレ含みます。

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押見修造が原作に込めた“曲想”



 1981年生まれの押見が自身の体験をもとに描いた漫画『志乃ちゃんは自分の名前が言えない』に、具体的な楽曲は“1曲半”しか登場しない。1曲目は、志乃(南沙良)と加代(蒔田彩珠)の〈しのかよ〉が路上ライブで初めて演奏する『あの素晴しい愛をもう一度』。残りの半分は、終盤の文化祭で〈しのかよ〉初のオリジナル曲として披露される、押見が自ら詞を書いた『魔法』だ(当然ながら、漫画の発表時点でメロディーはついていない)。



『志乃ちゃんは自分の名前が言えない』© 押見修造/太田出版 ©2017「志乃ちゃんは自分の名前が言えない」製作委員会


 『あの素晴しい愛をもう一度』は、大学生フォークグループ「ザ・フォーク・クルセダーズ」の主要メンバーだった北山修(作詞)と加藤和彦(作曲)が1971年に発表したシングル曲。中学校の音楽教科書に載るなど定番の合唱曲として有名なことから、音楽にあまり詳しくない志乃のために加代が選んだことは容易に理解できる。だが、それだけではなく、描き手の押見がこの曲を挿入した理由は、歌詞の面からも推測可能だ。


 精神科医でもある北山は著書『 コブのない駱駝――きたやまおさむ「心」の軌跡』(岩波書店刊)で、詞の内容を自己分析している(P213~214)。


 “かつての恋人が、同じ花を見て、あるいは同じ夕焼けを見て「美しい」と語り合った。そして、二人の間にあった愛は、もうはかなく消えていってしまった。あの素晴しい愛をもう一度、と願っていても、それが再び現れることはないと知っている。


 (中略)心の安らかな状態というのは、美しいものが消えてゆくという「はかなさ」と併存しているのではないかと思います。現れては消えるもの、生であり死であるもの。(中略)周知のごとく「もののあはれ」とも言われて、日本人の心の中には、そうしたものを愛でる感性があるのだと思います。


 絶対の一つを求め続けるのではなく、絶対がないことを知って半ばあきらめつつ、でも、希望は失わない「あきらめ半分」。(中略)終戦世代の私たちは、皇国から民主主義にコロリと価値観を変えた大人を「焼け跡派」とともにみていました。そして絶対に、絶対を信じないぞという思いをかみしめたのです。”


 きらめくような青春の時間も、心と心が通う喜びも、決して永遠ではない。しかし、はかなく消えるからこそ、美しく、すばらしいと感じられるものがある――。そんな思いを、押見もまたこの歌に込めたはずだ。



『志乃ちゃんは自分の名前が言えない』© 押見修造/太田出版 ©2017「志乃ちゃんは自分の名前が言えない」製作委員会


 『魔法』の詞についてはどうだろうか。太田出版から今月出版された『 志乃ちゃんは自分の名前が言えない オフィシャルブック』の中で、押見は自作をこう語っている(p109~110)。


 “加代の部屋のポスターはほぼ音楽関係ですね。フレイミング・リップス、ボブ・ディラン、ベル・アンド・セバスチャン。ここにディランを出したいというのが大きかったです。あとは、普通になれない女の子二人の物語、という意味で『志乃ちゃん』の下敷きである『 ゴーストワールド』のポストカードとポスターです。(中略)「魔法」の歌詞の「バスに乗ろう」は映画『ゴーストワールド』のラストシーンが下敷きです。”


 ソーラ・バーチとスカーレット・ヨハンソンが共演した『ゴーストワールド』(2001)には、廃線になった路線バスの停留所で待つ人が、回送バスに乗ってどこかへ旅立っていくシーンがある。馴染むことができず居場所のない故郷の町から離れたい、解放されたいという願望の象徴だ。


 また、ボブ・ディランのポスターについては、具体的にはマーティン・スコセッシが監督したディランのドキュメンタリー映画『 ノー・ディレクション・ホーム』(2005)のものが描かれている。「no direction home」はディランの代表曲『 ライク・ア・ローリング・ストーン』の歌詞の一節で、「家に帰る道がない」という意味。『魔法』の歌詞も「私は今すぐ帰りたい」と言いつつ、帰りたい先は「みんなの知らない秘密の場所」であり「あのコの座る校舎の裏」であって、家ではないところに、ディランの詞とのつながりを感じさせる。


『 ノー・ディレクション・ホーム』予告


 ちなみに、映画の加代の部屋では、ディランがベースを持った『 ミスター・タンブリン・マン』のポスターに差し替えられている。菊地(萩原利久)が〈しのかよ〉にタンバリンで参加させてくれと懇願する展開をさりげなく予告するとともに、時代設定を原作よりも古くするという製作陣の意図があったかもしれない(携帯電話もネットもなく、音楽再生の道具がCDとカセットテープの携帯プレーヤーというのは、『ノー・ディレクション・ホーム』が公開された2005年よりも前の時代と考えるほうが自然だ)。




『志乃ちゃんは自分の名前が言えない』© 押見修造/太田出版 ©2017「志乃ちゃんは自分の名前が言えない」製作委員会




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