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『ビフォア・サンライズ 恋人までの距離』リチャード・リンクレイターが紡ぐ、時間と空間の哲学とは

『ビフォア・サンライズ 恋人までの距離』リチャード・リンクレイターが紡ぐ、時間と空間の哲学とは


セリーヌの微笑みが意味するもの



 本作は、列車に乗るセリーヌの謎めいた微笑みによって幕が閉じる。二人はこの先どうなるのかという、通常の恋愛映画における結末が描かれないラストは、ある観客にとっては不満を覚えるかもしれない。だが逆に考えると、それは本作がそこを重要な点だと考えていないということでもある。つまり、描きたいことはすでに描かれているのである。それは何か。ラストシーンの微笑みは、一体何を示すのか。


 彼らの会話のなかで、セリーヌは、自分が将来死ぬことへの恐怖を語っている。そして、自分がいま生きている時間が、じつは老婆になって死ぬ間際の回想に過ぎないのだと妄想することがあるのだという。


時間と空間における人間の存在



 朝日が昇ったラストシーンでは、バッハの「ヴィオラ・ダ・ガンバとチェンバロのソナタ No.1 BWV 1027」第3楽章が、不釣り合いなほど荘厳に、そして穏やかに流れるなか、二人がめぐったウィーンの街のところどころが映される。しかし、二人の姿はそこにはない。人間はかりそめの存在に過ぎず、遍在(あちこちに存在)することはできない。二人はアメリカとフランスに帰り、同じ時間を別々の場所で暮らすことになるのだ。そして、二人が老いて亡くなった後も、ウィーンの街の風景は、同じような姿で遺り続けるはずなのだ。




 二人の恋の行方は、(少なくともこの作品中では)語られないし、永遠に会うことはないのかもしれない。だがそうだとして、それは本当にただ空しいだけの出来事なのだろうか。将来、二人が結ばれたならこの出会いに意味があり、結ばれなかったら意味がない。その考え方は、例えばある宗教を信仰する人が「極楽に行けば人生に意味があり、行けなかったら意味がない」と考えるようなものだろう。


 もし、二人が結ばれないとしても、同じ列車に乗り合わせ、同じ時間と場所を共有したことは紛れもない事実である。二人がそこに存在しなくともウィーンの街が遺り続けるように、過ぎ去った二人の「時間」もまた、セリーヌたちがいなくてもそこに存在し続ける。それが未来の境遇に何らかの意味をもたらそうが、もたらすまいが、いや、むしろそれが分からないこそ、それは自分の人生のなかで独立したものになり得るのだ。その事実を、二人がいなくなったウィーンの風景から感じることができる。


 彼女は、「いまここで自分が生きている」という実感が、いまいち持てずにいる。その原因はおそらく、前述した死への恐怖にあると考えることができる。なぜなら、特定の宗教を信仰していない彼女にとって、死ぬことは無に帰すことであり、無に向かって生きているのだとすれば、そこに意義を見いだすことが困難だからである。だから彼女は、死ぬ間際の瞬間が恐ろしいと語る。これは多くの無神論者にとって共通の感覚ではないだろうか。


 ウィーンの街角に貼られた、スーラの絵画展ポスターの絵について彼女は、人間が背景に溶け込むような筆致を、「見て。環境の方が人間より強い」、「人間は移ろいやすい、束の間の存在ね」と、そこでも人間存在のはかなさについて語っている。



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