"赤狩り"により踏みにじられた、彼らの名誉は回復された
さて、言われなき理由から、名作のスタッフリストから名前が消えたトランボだったが、その後、映画芸術科学アカデミーは冷戦時代を席巻したイデオロギーによる差別を正す作業に着手し、1993年、遂にトランボの手にオスカー像が渡った。トランボがこの世を去ってから(1976年・没)、すでに17年の歳月が過ぎ去っていた。
クレジットにまつわるドラマにはさらに先がある。トランボの息子で脚本家のクリス・トランボと、同じ脚本家の友人で、ハンターの息子、ティム・ハンター・ジュニアが協力し、2人が所属する全米脚本家組合(WGA)に双方の父親の本格的な名誉回復を嘆願。結果、2011年12月19日、『ローマの休日』の原案ストーリーにはダルトン・トランボを、脚本にはイアン・マクレラン・ハンターとジョン・ダイトン(ワイラーからリライトを依頼されたイギリス人脚本家)を、各々クレジットすることをWGAが決定。こうして政治に翻弄された男たちの名誉は、完全に取り戻されることとなった。
オードリーがキャスティングされた本当の理由
ところで、オードリーのキャスティングはどうだったのか?スクリーンテスト後、オードリーが思わず垣間見せた自然な笑顔が、ワイラーの心を射抜いたことはよく知られている。ハリウッドから遠く離れても、映画作りの不自由さを引きずっていたスタッフの気持ちを、オードリーが持ち前の明るさとプリンセス然とした雰囲気で包み込んだことも確かだろう。
しかし、彼女は戦争体験者である。オランダのアーネムで延々と続いたナチスの総攻撃にも屈せず、見事生き残ったオードリこそが、人種やイデオロギーの違いによって引き裂かれる世界の絶望を知る人物だった。恐らく、ワイラーはオードリーの天使のような笑顔の裏側に、辛い経験を跳ね返そうとする強い意志を感じ取って、作品の成否を分ける王女役を依頼したのではないだろうか。