(c)2018 NORD-OUEST FILMS – ARTE FRANCE CINÉMA
『アマンダと僕』日常が破壊された者たちに優しく寄り添う、ミカエル・アースの描くものとは。
亡き母に捧げた想い
『アマンダと僕』は、いつ何が起こるかわからない、もろく壊れやすい状況を語っている。アースの作品では、主人公は全く普通の男性であり、遺された彼らは悲しみを堪えきれずにしばしば涙を流す。彼は、社会問題よりも、個人の反応、脆弱性を見つめるのだ。
今回は、ヴァンサン・ラコストが、まだ大きな子どもであるかのように、父を代理することの戸惑いや幼い子と接するぎこちなさの微細なニュアンスを慎重に表現し、私たちに親近感を抱かせる存在として現れている。また、街中で声をかけてキャスティングを行う「ワイルド・キャスティング」で発掘された──体育教室の習い事から出てきたところにオーディションのチラシを渡した──アマンダ役の演技未経験のイゾール・ミュルトリエが、無垢の象徴として、大人の理解とは異なる悲しみや喜びの感覚をヴィヴィッドに体現し、きらめきを放っている。
『アマンダと僕』(c)2018 NORD-OUEST FILMS – ARTE FRANCE CINÉMA
本作の軽やかなトーンや品のよさは、彼らを中心にもたらされているのであり、この物語は、ラテン語で「愛する」「愛くるしい」という意味の名を持つ少女が、以前のように再び心から笑顔になることができるのかどうかに賭けられている。
それを達成する上で鍵となるのが、サンドリーヌがアマンダに教えた言葉──“エルヴィスは建物を出た”であろう。これは、1956年のエルヴィス・プレスリーのコンサート後に、出入り口に彼が現れるのを待ち続けるファンを帰らせるために、スタッフがアナウンスした言葉で、「楽しいショーはもう終わり」「これで勝負はついたから望みはない」というような意味として使われる表現である。
その諦観の概念に囚われてしまったアマンダに、ミカエル・アースはそれが誤解であることをそっと示そうとする。10代の頃テニスに熱中していた彼は、何が起こるかわからない、形勢が土壇場で逆転するかもしれないテニスの試合にその意味を託したのだ。ここに至って、ダヴィッドから注がれる愛情にアマンダが気づいたとき、「何が起こるかわからない」の意味合いは好転するだろう。アースは、撮影前に亡くなった自身の母親シャンタル・アースにこの映画を捧げ、喪失を味わった者や街に、恩恵と共感を優しく吹き込んでいる。
文: 常川拓也
「i-D Japan」「キネマ旬報」「Nobody」などでインタビューや作品評を執筆。はみ出し者映画を特集する上映イベント「サム・フリークス」にもコラムを寄稿。共著に『ネットフリックス大解剖』(DU BOOKS)。
『アマンダと僕』
2019年6月22日(土)より、シネスイッチ銀座、YEBISU GARDEN CINEMAほか全国順次公開
公式サイト: http://www.bitters.co.jp/amanda/
(c)2018 NORD-OUEST FILMS – ARTE FRANCE CINÉMA
※2019年6月記事掲載時の情報です。