1. CINEMORE(シネモア)
  2. NEWS/特集
  3. 『裸のムラ』は見終わった後もずっと引っ掛かる【えのきどいちろうの映画あかさたな Vol.13】
『裸のムラ』は見終わった後もずっと引っ掛かる【えのきどいちろうの映画あかさたな Vol.13】

(C)石川テレビ放送

『裸のムラ』は見終わった後もずっと引っ掛かる【えのきどいちろうの映画あかさたな Vol.13】

PAGES

  • 1


 『はりぼて』(20)で五百旗頭幸男監督のファンになった者としては待望の新作公開だ。ポッカリ時間が空いた平日の午後、ポレポレ東中野にダッシュした。『はりぼて』が評判になったおかげか、今回の『裸のムラ』(22)は各媒体に好意的に取り上げられていて、それらを目にする度、あー、早く見に行きてぇと焦ったのだ。特にグッと惹きつけられたのはTBSラジオ『アシタノカレッジ』(金曜、武田砂鉄さんの回)に五百旗頭監督が出演されたのを聴いてからだなぁ。ラジオはテレビより「言葉」が聞こえてくる。スマホのスケジュール表を睨みながら、もう気が急くばかりだった。


 で、見始めていきなり、うおお、こう来たかー!であった。『はりぼて』が丹念に富山市議会の政務活動費・不正受給問題を追いかけ、「閉鎖社会で居丈高に振舞う人間の滑稽さ」をあぶりだすポリティカルな喜劇(?)だったのに対して、『裸のムラ』は電車でいえば複線というのか複々線というのか、線路が1本ではないのだ。3つの取材対象が追いかけられている。「石川県知事交代のあらまし」「コロナで石川県へやって来たバンライファー家族(車中生活をするノマドワーカー)」「石川県にモスクをつくったムスリム家族」。それぞれ大変興味をかきたてられるが、どう関連性があるかはちょっと見当がつかない。


 このなかで「七期27年余りにわたり県政を牛耳った谷本正憲・前知事、それに取って代わった馳浩・新知事(見え隠れする森喜朗・元首相の影)」を取り扱ったパートは閉鎖的な政治風土を描いて、『はりぼて』を連想させる。僕もそうだけど、たぶん多くの観客はこの線路(?)を行く映画なんだろうと予想していたはずだ。五百旗頭さんは長年勤めた富山のチューリップテレビを辞め、石川テレビに中途入社されている。そりゃ無風の保守王国・石川(長期県政が常態化し、戦後の公選知事がわずか4人しかいない)に斬り込んでいくと思うじゃないか。


 ていうか斬り込んでくれている。僕は「斬り込むかと思ったら手ぬるいですよ」みたいな話がしたいのじゃない。政治劇のパートだけで圧倒的に面白いのだ。谷本・前知事の振舞いはしみじみ嫌らしいし、馳・新知事のワンフレーズだけ言う演説(?)は一発ギャグのようだ。「女性活躍」を謳い上げながら花束をもらう写真撮影のときだけ女性を登壇させ、すぐ下げてしまう様子、議場で県の女性職員が身をかがめ、水差しまわりをていねいに拭く「下働き」めいた様子が映される。


 その描き方がいかにも淡々としているのだ。特段、「ここが問題だ!」と指弾するトーンではない。淡々としているにもかかわらず、男性原理や同調圧の息苦しさが映り込んでしまうのだ。



『裸のムラ』(C)石川テレビ放送


 『裸のムラ』の姉妹版ともいえる『日本国男村』(僕は未見。『裸のムラ』からバンライファー部分を外したものだという)の放映後、「わかってはいたが、ここまで酷いとは」「石川県内の番組で、知事や国会議員がこれほど滑稽に描かれたのを観たことがない」との反響(映画パンフレット、五百旗頭監督のディレクターズノートより)があったというが、えー、そうかなぁと意外に感じる。五百旗頭さんはただこれまで見過ごされてきたもの(水差しを拭く女性職員etc)にカメラを向けただけだと思う。


 が、冒頭述べたようにこの映画は単線的な構造ではない。「知事や議員を滑稽に描く」ことを目的とした映画ではない。石川県の風土のなかでどうしても異質さが際立ってしまう「バンライファー」と「ムスリム家族」パートを組み込んだことで、味わいはとても複雑になる。


 「バンライファー」が石川県に持ち込むのはアメリカ発の新しいライフスタイルだ。石川に移住し、数社の企業広報をリモートワークでこなすバンライファーの一家は最初のうち、共同体の「自粛警察」の目に怯える。他所ナンバーのバンをどこに停めたらいいか苦慮する。移動の自由を持ってるはずのバンライファーはコロナ禍でその自由を制約される。すると狭い居住空間のなかで家族のイライラがつのりだす。新しいライフスタイルのなかでも家父長制的な抑圧は健在で、ムラのなかのムラ、共同体のなかの小さな共同体のように「入れ子細工」の構造をつくり出す。


 「ムスリム家族」の拠って立つところはイスラム教だ。地域のなかで異質のコミュニティであり、モスクの建造は当初「爆弾でも作ってるんじゃないか」と警戒される。そこに折り合いをつけ、理解を得ていく過程があるのだが、折り合いがついて理解を得ても子どもたちは言うに言われぬ差別や偏見にさらされている風である(五百旗頭監督が踏み込んで質問するが、逃げられてしまう。それを五百旗頭さん自身の男性原理、権力性の発露と見る識者もある)。


 3つの異なる取材対象は日本の閉塞感をそれぞれの形で映し出す。僕は写真の図取りのことを考えた。写真に凝っていた頃、図取り(フレーミング)は面白いぞと発見したのだ。撮影の対象をフレームいっぱいに映すときは情報量が整理されてストレートな伝達になる。で、フレームを大きく取ると撮影対象の人物なり、建物なりのまわりの余計なものが映り込んでくる。情報としてはノイズが混じる。何が言いたいのかハッキリしない写真になる。僕はこの「ヘンにフレームを大きく取った写真」に熱中した。人物だけじゃなく、後ろの看板や電柱が入る写真にこだわった。ラーメン屋の店内なら真ん中の人物をなめて壁のメニューや値段の貼り紙を入れ込んだ。撮るときに意図しない情報が入ってるほうが現像したとき面白いのだ。『裸のムラ』はそれを思い出した。単線的でない分、(ムダに?)情報量が多くなる。それが面白い。見終わった後もずっと引っ掛かる。


 僕はそれが五百旗頭監督のチャレンジだと思った。パンフレットを眺めながら、今も引っ掛かっているところを反芻し、考えている。「ここが問題だ!」式の政治風刺だったら見終わってスッキリして、もう忘れているかもしれない。



文:えのきどいちろう

1959年生まれ。秋田県出身。中央大学在学中の1980年に『宝島』にて商業誌デビュー。以降、各紙誌にコラムやエッセイを連載し、現在に至る。ラジオ、テレビでも活躍。 Twitter @ichiroenokido 



『裸のムラ』を今すぐ予約する↓




『裸のムラ』

絶賛公開中

配給:東風

(C)石川テレビ放送

PAGES

  • 1

この記事をシェア

メールマガジン登録
counter
  1. CINEMORE(シネモア)
  2. NEWS/特集
  3. 『裸のムラ』は見終わった後もずっと引っ掛かる【えのきどいちろうの映画あかさたな Vol.13】