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深田晃司監督による特別寄稿「宮崎駿とわたし」

© 1986 Studio Ghibli

深田晃司監督による特別寄稿「宮崎駿とわたし」

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宮崎駿の最大の魅力



 さて、では私はなぜ宮崎駿がこんなにも好きなのか、と考えるが、「面白いから」と言ってしまうと身も蓋もなく話が終わってしまうが、確かにそうである。宮崎駿は稀代のストリーテラーでありエンターテイナーであり、超人的な職人でもある。それは、宮崎駿がスタッフとして関わった多くのアニメ作品で成し遂げた仕事や、ジャンル映画としての異様な完成度を誇る『ルパン三世 カリオストロの城』を見れば明らかだろう。


 しかし、その類い稀な娯楽性は宮崎駿のごく一面でしかない。多くの職人的なアニメ監督と異質なのは、自身を駄菓子屋に例え「作家であるなんてのは幻想にすぎません」と断言する(*1)本人の言葉とは裏腹に、宮崎駿は愚直なまでに「作家」であり続けているからだ。「作家」であるとはすなわち、自身の視点と思想を賭けて作品作りに臨んでいる、ということであり、そのためには娯楽性や「面白さ」さえも平然と犠牲にする野蛮さこそが宮崎駿の最大の魅力である、と私は考えている。


 『天空の城ラピュタ』は傑出した作品であるが、実は単純に活劇としての面白さのピークは中盤の要塞からのシータ救出の場面だと思っている。特に宝島であるラピュタに到着してからは、物語のテンションはやや下がる。その最大の理由は、優等生的な主人公二人に対し強烈なアクの強さで物語を攪拌し引っ張っていったドーラ一味が、ラピュタに到着した途端あっさり捕獲され急に出番がなくなるからである。


 冒険活劇の定石で考えれば、あれほどの魅力を放つキャラクターは、クライマックスまで生かすべきである。例えば、土壇場のところでパズーとシータを助けにくるとか、いくらでも方法はあったであろう。しかし、宮崎駿はそれをしない。宮崎駿自身、当初は最後までドーラ一味を活躍させたいと思っていたものの、「後半の戦いはパズーが自分でケリをつけないといけない」と考え直し、パズーがひとりでシータを助けにいく、現在のものとなったのだそうだ(*2)。


 これは、宮崎駿の創作への態度に通底していて、手塚治虫への宮崎駿の批判のひとつに、ときに手塚がストーリーテリングとしての面白さを優先し、泣かせるために最後に主人公を殺したりすることを挙げていた。(*3)卓越した娯楽の職人でありながら、「面白さ」に世界やキャラクターを従属させることに強烈に反発するという、矛盾したふたつの個性の葛藤とせめぎ合いが、常に宮崎駿の作品に緊張感をもたらしているのである。


 だからこそ、私は『千と千尋の神隠し』にしこたま感動したのだ。



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