国際共同製作である『山女』の監督・脚本は、これまで民族やルーツにフォーカスを当ててきた福永壮志監督。初の長編劇映画である『リベリアの白い血』(15)は第65回ベルリン国際映画祭パノラマ部門に出品され、2作目の『アイヌモシㇼ』(20)は第19回トライベッカ映画祭で審査員特別賞を受賞、国際舞台でその存在感を強めている。ニューヨークで映画を学び、グローバルな制作体制で独自の作品世界を追求してきた福永だが、近年では、米ドラマシリーズ『SHŌGUN』や『TOKYO VICE S2』の監督も務める活躍ぶりだ。そんな福永が本作で描くのは、18世紀後半の東北。柳田國男の「遠野物語」に着想を得たという本作に、福永が込めたものとは? 話を伺った。
『山女』あらすじ
18世紀後半、東北。冷害による食糧難に苦しむ村で、人々から蔑まされながらもたくましく生きる凛(山田杏奈)。彼女の心の救いは、盗人の女神様が宿ると言われる早池峰山だった。ある日、飢えに耐えかねた凛の父親・伊兵衛(永瀬正敏)が盗みを働いてしまう。家を守るため、村人達から責められる父をかばい、凛は自ら村を去る。決して越えてはいけないと言い伝えられる山神様の祠を越え、山の奥深くへと進む凛。狼達から逃げる凛の前に現れたのは、伝説の存在として恐れられる“山男(森山未來)”だった…。
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人間は複雑で多面的
Q:本作は「遠野物語」に着想を得たとのことですが、どういったところに惹かれたのでしょうか。
福永:「遠野物語」で連想されるのは、河童や座敷童子などのわかりやすい妖怪かもしれませんが、実際はファンタジーの内容ではなく、人知を超える得体の知れない何かが自然の中に存在することが、現実として描かれています。昔はそういう自然に対して畏怖を持って生活をしており、そこで描かれる人間たちは浅はかで滑稽、そして弱く、常に人間臭く生きている。改めていま読み返すと、日本人の源流みたいなものが浮かび上がってきます。そこに描かれているような得体の知れない何かにすごく惹かれるし、もっと知りたい。そしてそれを言葉ではなく映像で表現したい。そういう思いがありますね。
『山女』©YAMAONNA FILM COMMITTEE
Q:凛たち家族を村八分にする村人たちが、ステレオタイプな悪役ではないのが印象的でした。
福永:人間は多面的で白黒つけられるものじゃないし、わかりやすい悪者を意図的に描いて不特定多数の人に観せることは、良くない影響を及ぼしてしまう。アメリカの映画批評家ロジャー・イーバートは、「映画は他者理解を促すことで文明を発展させるメディアである」と言っていて、「(映画は)共感を生み出すマシーンだ」という名言を残しています。単純で現実味のないキャラクターを描くことは、イーバートの思想を拒絶して、偏見を助長するようなもの。悪い行為や間違った行いをしていても、それぞれに理由や葛藤がある。そういった多面的な描き方をすることを常に意識しています。
Q:永瀬さん演じる“伊兵衛”も、とてもひどい親に見えつつも本質的な悪を感じることはありません。
福永:永瀬さんは脚本を読んだ時点で、そこは既に理解されていました。永瀬さんにお願いしたのはそういうところも大きいですね。 “伊兵衛”については、単なる悪人ではなく人間味を持った存在にするという共通認識がありました。劇中での伊兵衛は嫌悪感しか抱かれなくてもおかしくないですが、そうならなかったのは、人間が持つ複雑さを永瀬さんが体現してくれたおかげですね。