映画に自分を投影する
Q:今回の映画化では主人公が映画監督へと翻案されています。
平波:原作の主人公である柾木は親の遺産で食い繋いでいて、今で言う引きこもりのような青年です。そんな柾木に対して他者がコミットするのを、現代に落とし込むことはなかなか難しかった。そこで思いついたのが、柾木を何かしらの芸術的分野に関わる人間にすることでした。そうすることで、ヒロインと一緒に暮らし始める中盤以降の動きも作りやすくなる。また、今回この作品を映画にする必要性を考えた時に、何かしら自分を投影できないかなと。
映画監督を主人公に映画を作ろうと思ったことはこれまでも何度かあったのですが、自分に近すぎるので、結局は避けてきていました。乱歩作品はすでにパブリックドメインなので、自由に手を加えることは可能ですが、乱歩の魂みたいなものに対して自分はどうコミットできるのかなと。そう考えると、これはもう柾木を映画監督にして自分を投影するしかないなと。その変な覚悟が芽生えてからは止まりませんでしたね。確か佐藤さんには一度止められた気もしますが(笑)。

『蟲』©2025「蟲」パートナーズ
Q:これまでもご自身を投影した作品はあったのでしょうか。
平波:自分を投影した経験は何度かあります。ただし、職種や性別を変えるなど、何かしら映画的に脚色していました。そうやって変化球みたいなことをやり過ぎたので、たまにはストレートでいこうかなと。
Q:「個人的なことを映画にしなさい」と言う有名監督のアドバイスはよく聞きますが、映画監督として自分のことを撮るということは、どんな意味があるのでしょうか。
平波:映画では欠陥を抱えた人間を描くことが多くて、それは万国共通。表現を通じて他者を知りたいという欲望はあるのですが、自分をさらけ出さないと他者とコミットできない。映画監督にはそういうコンプレックスを逆手に取るような捻くれた人種が多いんじゃないですかね(笑)。面と向かって話してもなかなか自分のことはさらけ出せませんが、映画や小説、音楽などの表現を通すことで、自分の弱いところをさらけ出し、それを魅力的に変えることができる。だからこそ、表現を通じて届けることができるのではないかと。逆にそういう手段でしか、他者と繋がりえない悲しい人種とも言えますが。