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ティム・バートン作品では珍しい直接の続編
誰もがよく知る往年の作品の、長い年月を経た上での続編やリメイク、同じ原作やキャラクター観を流用して仕切り直すリブート作品というものが盛んになって久しいが、ティム・バートン監督のカルト的人気を誇るホラー・コメディ作品『ビートルジュース』(88)さえも続編が実現するのだから、全く油断ならないものである。しかし、36年越しに実現した続編『ビートルジュース ビートルジュース』は、大勢が過度に期待を寄せるような大作の続編などとは打って変わって、手に余るほどのスケールアップなどもせず、ただひたすらにオリジナル版の続きとして描かれている印象だ。ちなみに続編の企画はこれまで一切持ち上がってこなかったわけではない。前作公開後から90年代初頭にかけて、『Beetlejuice Goes Hawaiian』というタイトルで続編が構想されていたこともあるし、TVアニメ・シリーズはオリジナルの後日談として展開される内容だ。その意味ではやはり密かに待ち望まれていた続編映画とも言える。
前作はのどかな田舎町で暮らすアダムとバーバラのメイトランド夫妻が、突然の事故死によって自宅に取り憑く幽霊となり、家に新たに越してきたディーツ家を追い払うため、対人間エクソシストにして霊界のトラブルメーカー、ビートルジュースに助けを求めることでひと騒動起こるというストーリー。続編の主な舞台もやはり同じ町なのだが、大きな特徴があるわけでもない風景ながら、ところどころにある印象的な箇所がフォーカスされ、メイトランド夫妻の車が川に落ちた光景が昨日のことのように思い出せる作りになっている。対する死後の世界のヴィジュアルも、カラフルな色彩とどこか表現主義的なパースがつけられたような様子は前作の雰囲気そのままで、前作から地続きのように見える絵作りが徹底されているようだった。
タイトルロールのビートルジュースも前作とほとんど変わらない造形を見せてくれる。ビートルジュースは霊界の住人なので歳をとらないのだが、別にデジタル合成によって往年の姿に調整されているというわけでもなく、ただ濃いメイクと、持ち前のパフォーマンスの力のみにより、マイケル・キートンは36年前の姿を再現した。これがいちばんすごいところではないだろうか。前作を含め全体に行き渡る手作り感の一端がこのパフォーマンスにあるように思える。
続投していない俳優ももちろんいる。ある程度の諸事情が察せられたり、すでに故人である場合もあるのだが、ストーリー上登場する必要がそれほどなく、むしろ登場しないほうが自然という向きの方が強かったりする。メイトランド夫妻の幽霊は晴れて呪縛が解かれて旅立っていったようだが、不在となったところでそれほど違和感はない。もちろんぼくは、前作公開時に多く寄せられたという「ビートルジュースに比べて夫妻のキャラクターが退屈」といった批評には賛同しかねる。夫妻があのようなキャラクター造形で、どこか狂言回し的であったからこそビートルジュースやディーツ家が際立ったのではないだろうか(そのような引き立て役だったことがアダム役アレック・ボールドウィンには不満だったのかもしれないが)。顔がおもしろく変形するところもあるし、あの平凡さ、退屈さがかえっていいと思うんだけどな。まあ、それはそれとして、夫妻の霊がすでにいなくなったとしても、今回のストーリーは成り立つ(だいたいメイトランド夫妻こそ、年を取ってはいけない立場なので再現が難しいだろう)。
ところでバートンのフィルモグラフィを見渡したとき、続編というもの自体そもそも珍しい。それらしいものが見当たるとすれば『バットマン リターンズ』(92)だが、それにしたって単に時系列が前作より後に来ているだけで、どちらかといえば1話完結のTVシリーズの別エピソードのような、並列の関係に感じられる。もう一本、『アリス・イン・ワンダーランド/時間の旅』(16)が『アリス・イン・ワンダーランド』(10)の直接の続編ではあるものの、バートンは製作総指揮にまわり、監督はジェームズ・ボビンにバトンが渡されている。バートン本人が変わらずメガホンをとり、物語としても直接の続編、後日談として描かれるのはこの『ビートルジュース ビートルジュース』が初めてということになり、ファンとしてこれは結構レアに感じてしまう。あまり続編を撮ってこなかった監督自身にしても、前作がそれだけ特別な作品だったということではないだろうか。