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『太陽を盗んだ男』を放った、ゴジと呼ばれた男【そのとき映画は誕生した Vol.4 後編その2】
太陽の決算
9月26日夜、完成披露試写会が東京・日比谷のスカラ座で開かれた。上映に立ち会う長谷川は、不安にさいなまれていた。すでに完成品を観た業界関係者から、やり過ぎではないかという意見が出ていたからだ。破天荒ぶりが度を越し、荒唐無稽で映画として破綻しているというのだ。当時の心境を、長谷川はこう語っている。
「客がノリきれるかどうかというのは不安だったよ。だけど難しいはずはないと、俺が面白いと思えば客だって面白いはずだというさ、もうその一点しかないわけだな」(『月刊イメージフォーラム』創刊準備号)
それだけに、完成披露試写で上映後に大きな拍手が起き、観客の高揚が伝わってきたことで、長谷川は胸をなでおろした。この映画を作ってきて、幸福だったのは、この夜だけだったと長谷川は言う。
この夜、帝国ホテルで行われたパーティで壇上に立った長谷川は、「これが当たらないと、また数年間、映画が撮れません。マージャンばかりやってることになる。よろしくたのんます」(『週刊サンケイ』79年10月18日号)と挨拶した。
映画会社と専属契約を結んでいないフリーの監督にとって、次の作品が決まらなければ収入は途絶える。長谷川は、映画を撮っていない時期は、麻雀で生計を立てていた。当時、一晩で50〜60万円勝つことも珍しくなかったという。
問題は、映画の撮影中には麻雀で稼げなくなることだった。映画を撮っているのだから、麻雀で稼ぐ必要はないようにも思えるが、低予算映画では監督がノーギャラということもある。事実、『青春の殺人者』で長谷川は監督料を受け取っていない。脚本の田村孟にも、主演の水谷豊にも、音楽のゴダイゴにもギャラは払われていなかった。
こうした状況を改善するためにも、今度はきちんとギャラを取ることを決めていた長谷川は、毎月50万円の支払いを山本又一朗に求めた。企画がスタートした1977年夏から3年分としたいところだったが、さすがにその要求は難しく、製作準備に入った1979年1月から8か月分、合計400万円を求めた。ここには脚本料・監督料のギャラが含まれている。
製作費の枯渇から支払いが滞ったこともあったが、最終的に山本は全額を支払ったという。
さらに長谷川は、本作の純利益に応じて報酬を受け取る歩合契約も結んだ。当初は純益の10%を要求したが、最終的に7%を受け取る契約となった。もちろん、映画が黒字にならなければ報酬は発生しない。
大まかに、本作にかかった費用を見てみよう。製作費は3億5,000万〜3億9,000万円(各資料によってバラつきあり)、宣伝費は1億2,000万円とされる。これに126本のプリント費などを加え、総原価を5億円と仮定してみる。興行収入のすべてが製作側に入るわけではない(およそ半分が劇場側に入る)ため、この原価を回収するには、興行収入で少なくとも10億円、そこから劇場側の取り分を引いた配給収入として約5億円が必要になる計算だ。これでプラスマイナスゼロである。
実際の興行成績はどうだったのか。10月6日に全国東宝邦画系で公開された本作は、評判こそ高かったものの、興行収入は期待したほど伸びなかった。10月の東宝全体の確定配給収入は3億2,000万円と記録されているが、これは本作単独の数字ではないにしても、興行が低調に終わったことを示す証左ではある。本作の最終的な配給収入は4億円に届かなかったとされる。
総原価を5億円とする先の試算に照らせば、製作・配給にかかった費用を回収できなかったことになる。テレビ放送権料なども考慮したペイラインは配給収入4億5,000万円と設定されていたが、それにも届かなかった。
この時期、沢田研二はコンサートの中で聴衆に向けて、『太陽を盗んだ男』の入りが芳しくないので、近所や職場の人に、とても面白い映画だと宣伝してほしいと呼びかけている。ただし、そのときは必ず「沢田研二って嫌いだけど」と付け加えることを忘れないように要望している。なぜなら、そうすれば自分を嫌いな人も観てくれるから、というのが理由である。
この興行不振によって、山本又一朗は、1億4千万円の借金を個人で背負うことになった。もっとも、事前にそうなることを山本は予想していた。スタート時から製作費が足りず、撮影でも予算がオーバーしていただけに、少々のヒットでは穴埋めできないことが明白だったからだ。そこで、必ずヒットする映画――それも低予算の即席映画をでっち上げることを決める。
山本は、キティ・フィルム代表の多賀英典にアニメーションの製作をもちかける。20代前半の頃にアニメ企画会社を作ったこともある山本にとっては、予算やスケジュールも含めて見通しが立てやすい。このとき、候補にあがった企画が、『じゃりン子チエ』と『がんばれ!!タブチくん!!』だった。
企画を吟味した多賀は『チエ』を推すが、山本は『タブチ』で行くことを決めた。動きの少ない作画で済むため、短い期間で制作できる。7月から制作を開始し、11月に公開する慌ただしさだったが、年内に公開しなければ、資金繰りが危うくなる。この作品も不発に終われば、おしまいである。結果として、『がんばれ!!タブチくん!!』(79)は、『太陽を盗んだ男』をはるかに上回る配給収入6億円を記録するヒットとなり、山本は窮地を脱した。