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『太陽を盗んだ男』を放った、ゴジと呼ばれた男【そのとき映画は誕生した Vol.4 前編】
ゴジ死す。2026年1月31日、“ゴジ”の愛称で知られた伝説の映画監督 長谷川和彦が逝った。享年80。
遺作となった『太陽を盗んだ男』(79)が公開されたのは、47年前である。その後も、常に半年後のクランクインに向けて次回作を準備していたが、半世紀近くも新作が途切れたまま、遂に命尽きた。現役監督以上の人気を最期までほこったのは、誰もが新作を待ち望んでいたからに他ならない。
10月16日からは、『太陽を盗んだ男/4Kデジタルリマスター』が2週間限定で劇場公開されている。この4K版の画質・音質は、近年増加する旧作4Kリマスターの中でも最高峰というべきもので、フィルムで観ているとしか思えない艶と質感を堪能した。初めて観る観客にとっては、幸福な映画体験が、繰り返し観てきたコアなファンにとっては新たな発見に満ちた映画体験となるだけに、ぜひ最寄りの劇場へ駆けつけていただきたい。
それにしても、なぜ長谷川和彦は、47年も新作を撮れなかったのか。その理由は、〈遺作〉の複雑な製作過程をたどることで知ることができるのではないか。『太陽を盗んだ男』は、どのようにして生まれたのか。
その始まりを知るには、〈悪魔の発明〉の誕生にまで遡らねばならない。
Index
- ゴジと呼ばれた男
- 『青春の殺人者』のあとに
- 長谷川和彦vs村上龍
- 幻の映画版『コインロッカー・ベイビーズ』
- 脚本家 レナード・シュレイダー
- ゴジラと原爆を作った男
- アメリカの太陽を盗んだ男
- 『太陽を盗んだ男』は実話の模倣か
- 1977年、「自作原爆」の時代
- 村上龍との別れ
- 学生映画の旗手たち
- 『笑う原爆』誕生
ゴジと呼ばれた男
クリストファー・ノーラン監督『オッペンハイマー』(23)は、原爆の父と呼ばれた理論物理学者J・ロバート・オッペンハイマーが人類にもたらした悪魔の発明をめぐる昂奮と苦悩が描かれていたが、日本にも原子爆弾を作った男がいた。中学の理科教師が自宅アパートで手製の原爆を製造し、それを使って日本政府を脅迫したのだ。
もちろん、これは『太陽を盗んだ男』の話である。沢田研二が演じた無気力・無思想な城戸誠は、原爆を手にするものの持て余し、政府に「プロ野球を完全中継しろ」「ローリング・ストーンズの日本公演を実現させろ」といった奇想天外な要求を行い、〈被爆国が作る原爆エンターテインメント〉という一種の言語矛盾へ果敢に挑んでみせた。
だが、これはまったくの虚構というわけではなかった。現実に原爆を自作した若者が現れた時代に、この映画は作られたのだ。
『オッペンハイマー』でも描かれていたように、広島への原爆投下から16時間後、日本では昭和20年8月7日を迎えて間もない時刻に、オッペンハイマーはラジオを通して、その成果を知ることになった。
同じ頃、爆心地から約30km離れた広島県賀茂郡西高屋村に、広島第五師団で陸軍中尉として勤務する男が命からがらたどり着いた。この村に住む彼の姉は、小学校の教師を務めており、6日の朝、校庭で原爆の閃光を目にしていた。彼女は、瀕死で村までたどり着いた弟の状況を知らせるため、広島の師団本部へと向かった。無断で軍を抜け出てきたとあっては脱走兵になりかねないという判断からである。原爆投下から2日後の広島市中を歩き回ることになった彼女は、妊娠5か月だった。
翌年1月5日に男児が産まれた彼女が原爆症を発症したのは、それから12年後のことである。このとき産まれた男児も7歳のときから年に2回、胎内被爆児として検査を受け続けることになる。被爆者手帳が交付された被爆2世の男児は、長じて”ゴジ”と呼ばれるようになった。
かつて松任谷由実との対談のなかで、ゴジという愛称の由来を尋ねられた長谷川は、こう答えている。
「あまり知的じゃないですけど、ゴジラなんですね。(略)背中まで髪がのびてさ、それでフットボールやり目をムいて走ってたら監督が『あれじゃ、まるでゴジラではないか』と言ったのに、発している。でも気に入ってんだよね、強そうだから」(『新評』80年10月号)
度重なる水爆実験によって誕生した怪獣ゴジラと、胎内被爆者であるゴジ。共に核の申し子として、被爆国が作る娯楽映画の中で存在感を見せていくことになるのは奇妙な因縁と言えようか。