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『太陽を盗んだ男』を放った、ゴジと呼ばれた男【そのとき映画は誕生した Vol.4 前編】

©1979 TOHO CO., LTD. / Tristone Entertainment, Inc.

『太陽を盗んだ男』を放った、ゴジと呼ばれた男【そのとき映画は誕生した Vol.4 前編】

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『太陽を盗んだ男』は実話の模倣か



 話を『太陽を盗んだ男』にもどすと、レナード・シュレイダーから持ちかけられた原爆映画の秀逸なアイデアに乗った長谷川は、疑問が浮かんだ――〈こんな面白い企画を、なぜアメリカ映画で作らないのか――〉。


 レナードによると、ダスティン・ホフマンにこの企画を持ちかけると、ふたつ返事で乗って来たが、自分の中で気持ちが変わったのだと言う。そして、この映画は唯一の被爆国である日本で作った方が世界的な訴求力があるというのだ。


 一見すると、もっともらしい理由に思えるが、これまで見てきたように、〈原爆の兄ちゃん〉こと"A-Bomb Kid"のジョン・フィリップスの存在は、無関係と言えるのだろうか。


 というのも、レナードが長谷川のもとへ、”The Kid Who Robbed Japan”のプロットを持ち込んだのは、1977年6月である。この時点で、全米では"A-Bomb Kid"の存在は広く知られており、映画化の話も複数存在していた。そうした動きを、レナードは当然知っていたはずだ。


 長谷川は、レナードがこの企画を思いついたきっかけを、以下のように代弁する。


「アサシンっていう雑誌がむこうにありましてね。そういうタイトルの雑誌だから犯罪のことがメーンだな。そのある号に『お前の町内で一番早く原爆を作る男になれ』っていう特集があった。フォルクスワーゲン一台分のスペースがあれば原爆は作れるんだという記事だね。それを見てシュレイダーがストーリーの骨子を発想した」(『週刊サンケイ』79年10月18日号)


 別の取材でも、長谷川は「アメリカで学生が(引用者注:原爆を)作ったという話よりずっと早かったよ」(『週刊現代』79年11月1日号)と強調する。


 つまり、『太陽を盗んだ男』は、ジョン・フィリップスとは無関係――もっと言えば、映画のアイデアの方が先行しているというのだ。


 だが、雑誌『アサシン(Assassin)』の第1号は1977年4月25日に発行されており、レナードが読んだという特集記事は発見出来なかったものの、すでにこの時期には、フィリップスは"A-Bomb Kid"として周知されていたことを踏まえれば、長谷川が言うような、「アメリカで学生が作ったという話よりずっと早かった」と言えないのではないか。


 創作において、長谷川は自身の体験も含めて雑多に取り込んでいくタイプである。神代辰巳が監督した『青春の蹉跌』(73)の脚本は長谷川が担ったが、自身のアメフト経験を劇中に取り入れることで、青春映画屈指の傑作へと変貌させた。


 一方、同じく神代が監督し、長谷川が脚本を書いた『宵待草』(74)の場合は、題名を竹久夢二の詩から借りてきたものの、内容はオリジナルとされていた。ところが、石川淳が1956 年に発表した『白頭吟』と、主人公の学生、父親、富豪令嬢、無政府グループなどの登場人物構成が酷似しており、台詞も6か所にわたって、ほぼそのままと言えるものだった。大正時代のアナーキストの物語だけに、似た部分が出てくることは理解できるとしても、以下のような長台詞まで同じとなれば、問題となるのは当然だろう。


「こんな馬鹿なところに来てゐて、タマもつかないやうな学生なら、せめて血ぐらゐは吐けよ」(『白頭吟』)


「こんな阿呆な所に来て、タマも突かないような学生なら、せめて血ぐらい吐きな」(『宵待草』脚本)


 石川淳は事前に何の連絡もなかったことを憤ったものの、発覚したのが公開から半年以上経っていたこともあり、今さら原作料を要求するつもりはないとして、この件は沈静化した。なお、盗作の指摘に長谷川は、こう回答している。


「あのシナリオは『白頭吟』を含めていろいろな資料を参考にして書いたが、とくに『白頭吟』に面白い部分がたくさんあったので、プロデューサーを通じて石川さんの了解を取ってもらうよう頼んだ。もしOKを取れないと時間的に間に合わない状態だったため、そのままになってしまったものだと思う。作品はぼくのものだと言えるが、対外的には明らかに手落ちで、石川さんにお詫びしたい」(『読売新聞』75年8月11日・夕刊)


 こうした前例からすると、ジョン・フィリップスの原爆作りをめぐる実話が、『太陽を盗んだ男』の参考になっていたとしても、不思議とは言えないのではないか。なぜ長谷川は、フィリップスからの影響を否定するのか。


 以下は筆者の推測にすぎないが、レナードがアメリカ映画として製作することを諦め、日本にこの企画を持ち込んできたのは、フィリップスの存在が壁になったのではないだろうか。というのも、原爆を作る学生の映画がハリウッドで複数企画されながら実現しなかったのは、フィリップスが著作権を主張して手記の執筆を進め、また自ら演じることを条件にした影響が大きかったことは、これまでに見てきた通りである。


 とはいえ、レナードのアイデアに独創性があることは疑いようがない。個人が原爆を作るというだけなら、日本ではすでに市川崑監督の『億万長者』(54)で、久我美子がバラック小屋で原爆作りを行う狂人を演じていただけに、目新しさはない。しかし、原爆を作って政府を脅迫するところまでは思いつくとしても、レナードは、〈何を要求するか〉という部分にひねりを加えた点が重要である。思想とも政治信条とも無縁に、当時は完全中継されていなかったテレビのナイター中継を要求するという、軽薄かつ虚無的な要求こそは、現代の感覚にフィットするものだった。




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