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『太陽を盗んだ男』を放った、ゴジと呼ばれた男【そのとき映画は誕生した Vol.4 前編】

©1979 TOHO CO., LTD. / Tristone Entertainment, Inc.

『太陽を盗んだ男』を放った、ゴジと呼ばれた男【そのとき映画は誕生した Vol.4 前編】

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ゴジラと原爆を作った男



 長谷川和彦のもとに、脚本家のレナード・シュレイダーが〈原爆を作って政府を脅迫する男〉の企画を持ちかけた1977年は、似た内容の映画が、長谷川の動きとは別に、もう1本進行していた。東宝の『KING of MONSTERS ゴジラの復活』である。これは、『メカゴジラの逆襲』(75)以来、中断していたゴジラシリーズをリブートさせるために検討された企画だった。中西隆三と村尾昭の共同脚本で書かれた内容は、次のようなものだった。


 過激派グループが静岡の原発からプルトニウムを強奪し、日本政府へ核の恐怖を伝えるために原爆を製造すると宣言する。そこへ海面から現れたゴジラが、テログループのアジトを襲いプルトニウムを吸収。そして浜松市街を破壊しながら原発へと向かったゴジラが、原子炉建屋を破壊する寸前、間一髪で原発からのプルトニウム緊急移送が完了する。


 長谷川が〈ゴジ〉の異名を持つことは前述したが、核の申し子というべき〈ゴジ〉と〈ゴジラ〉が、奇しくも1977年にプルトニウムを強奪して原爆を製造し、政府を脅迫する話を共に考案していたことになる。もっとも、『ゴジラの復活』は企画が二転三転し、このとき書かれた脚本が映画化されることはなかった。ゴジラが眠りを覚ますのは、1984年公開の『ゴジラ』まで待たねばならなかった。


 それにしても、なぜ1977年にこうした核ジャック企画が相次いだのか。前年、アメリカで衝撃的なレポートが発表されていたことも無縁とは言えないのではないか。


 1976年、プリンストン大学物理科の学生だったジョン・フィリップスは、中学生程度の物理の知識があれば誰でも原爆を作れることを立証し、全米を震撼させた。これは、ノンフィクション作家ジョン・マクフィーの著書に、核分裂性物質さえ入手できれば原爆を作れるとあったことに刺激され、広島型の半分の威力を持つ原爆を設計しようと思い立ったのだ。


 作業は5か月にわたって進められたが、遅々として進まなかった。肝心の原爆を爆発させる起爆装置が上手く設計できなかったからだ。そこで、プルトニウムを製造する科学メーカーのデュポンに虚偽の肩書きで電話し、米軍が核爆発に使用する化学物質について尋ねた。もちろん、その回答だけで原爆が作れるわけではないが、書籍や報告書などを基に推理を働かせ、遂に2,000ドルで製造可能な56キロのプルトニウム核分裂装置の設計図を完成させた。


 提出された設計図を目にした指導教授(マンハッタン計画にも参加していた)は、フィリップスにA評価を与えたが、同時にこの設計図を閲覧不可とした。しかし、この学生の存在は、たちまちマスコミでも話題となり、彼は"A-Bomb Kid"と呼ばれるようになった。『太陽を盗んだ男』風に訳せば、〈原爆の兄ちゃん〉とでも呼ぶべき存在として、やがて世界中から注目をあつめることになる。


アメリカの太陽を盗んだ男



 一夜にしてスターとなったジョン・フィリップス。あちこちのメディアに顔を出す彼の周囲には、正体不明な人物が出没するようになった。ある国の政府要人を名乗る人物が、設計図のコピーを入手しようと接近してきたこともあった。遂には、ハリウッドからも声がかかった。ユニバーサル・ピクチャーズは、学生が原爆を作ってしまう物語に恋愛サスペンスを加味した企画を用意し、フィリップスが映画のモデルになることを了解させようとしたが、彼は条件を付けた。


 1つは脚本への拒否権である。その理由を「映画が原爆設定の政治意義を誤って描写しないようにするため」と彼は説明する。だが、もうひとつの条件は、映画製作者たちを狼狽させた。それは、フィリップス自らが主役を演じることだった。もちろん、彼に演技経験はない。それでも、原爆を設計してみせた自分には、宇宙飛行士になることも、映画俳優になることも出来る。彼はそう信じていた。実際にスクリーン・テストも行われ、意外なことにその演技が評価され、彼が主役を演じることが決定してしまうのだから、世の中はわからないものだ。


 一方、ハリウッドに足を踏み入れたフィリップスは、自分の関知しないところで、類似した映画が作られる可能性も知ることになる。彼はこう記している。


「ユニバーサルの男は確かに原子爆弾を設計する学生を描いた映画シナリオがもういくつか“製作中”のものがあると言った。あるシナリオの中では、その架空の学生はプリンストン大(引用者注:フィリップスが在籍中の大学)に通ってさえいるのだ。もし彼の言うことが本当なら、僕がだれに版権を売ろうと売るまいと、僕についての映画は作られるだろうと思われた」(『ホームメイド原爆』)


 つまり、学生が原爆を作るという設定だけでは、著作権が主張しづらい。そこで、フィリップスは弁護士の助言に従い、自身の原爆設計とその波紋を描いた手記を執筆することにした。それを盾に著作権を主張すれば、類似した映画が作られることを防ぐことが出来ると考えたわけだ。この手記は1979年に出版され、日本でも翌年に『ホームメイド原爆 原爆を設計した学生の手記』(アンヴィエル)の題で刊行されている。


 後日談を記しておけば、フィリップスの主演映画は、大手映画会社が素人俳優に莫大な製作費を投入するリスクから、製作中止となった。しかし、『太陽を盗んだ男』から遅れること7年後に、彼をモデルにした映画は完成している。科学好きの高校生が町外れに秘密裏に作られた核研究所へ侵入し、プルトニウムを盗んで原爆を製造する『マンハッタン・プロジェクト』(86)がそれである。日本では劇場未公開、ビデオ発売とテレビ放送(放送題は『プルトニウム・パニック』)のみだった。この映画に、彼の名がクレジットされることはなかった。




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