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『太陽を盗んだ男』を放った、ゴジと呼ばれた男【そのとき映画は誕生した Vol.4 前編】
1977年、「自作原爆」の時代
別の側面からも見てみよう。『太陽を盗んだ男』と同時代の日本の雑誌を眺めていくと、個人が原爆を作るという記事を幾つも見つけることが出来る。
たとえば、長谷川和彦と村上龍の対談が掲載された雑誌『GORO』(77年2月10日号)では、同じ頁に次号予告として、「アメリカで大問題! 制作費60万円で原爆が作れる」というスクープ記事の見出しが踊っている。そして、次号(77年2月24日号)に登場するのが、他ならぬジョン・フィリップスである。インタビューで彼はこう語っている。
「『パリ・マッチ』誌(引用者注:フランスの写真週刊誌)がおもしろい筋書きを考え出してね。ボクが銃か何かでおどかされて、テロリストに誘拐される。その数日後、プルトニウムが盗み出される。原子力発電所か何かからね。そのうちに、原爆をおどし材料に使って要求が出される、というストーリー」
世界中が、〈原爆の兄ちゃん〉に刺激されて創作を開始しているかのようだ(『パリ・マッチ』が作ったストーリーは、前述の『ゴジラの復活』に影響しているような気がしないでもない)。
『GORO』では、1977年7月28日号、8月11日号の2号にわたって、「極秘実験レポート」と称して「GORO機動班が“原爆”を作った!!」という前後編の11頁にわたる企画も敢行している。
これは、実際にどの資料を参照すれば良いかを提示し、製造過程を写真入りで紹介しながら、小型原爆のレプリカ製造まで実践した過激な内容になっている。もちろん、そこにプルトニウムは搭載されていないが、入手の経路についても詳細に記しており、水戸街道で核燃料輸送車の追跡も行っている。秋葉原の電気街で部品を求めながら起爆装置も作成し、理論上は原爆が製造可能であることを示した。
ジョン・フィリップスの原爆作りも含めて、こうした記事があふれていた1977年は、〈自作原爆〉という奇妙な発想が一種のブームになった年だった。その風潮を映画に反映させたのが、『太陽を盗んだ男』ではなかったか。
大森一樹も、森田芳光も、石井聰亙(現:石井岳龍)もまだ商業映画を撮っていなかったこの時期、当時31歳の長谷川は、若者向けの雑誌やコミックに漂う〈気分〉を、映画に取り入れることが出来る稀有な存在だったと言えよう。
村上龍との別れ
長谷川和彦の新作を報じた『週刊プレイボーイ』(77年10月25日号)では、「手製の原爆を持って日本国家を脅迫する主人公は、恋人と二人で日本列島の中を移動する。メインの沖縄を始め、全国でかなり大がかりなロケが敢行されるもよう」と伝えている。
完成した映画が全編都内ロケだったことを思えば、大幅に異なる内容だが、注目すべきは、レナード・シュレイダーの原案を、これ以前から長谷川と組んで脚本を書いていた村上龍が脚色すると記事では伝えている。それに続く長谷川の次のコメントも、参加を裏付けるものになっている。
「キャスティングの方も煮つまってきて、男の主役はもうすぐ決まるんだ。年が明けたらクランク・インできると思うけど、脚本待ちの部分も多いからね、ともかく毎日、龍の尻を叩いているところなんだ」
これが事実なら、長谷川と村上のコラボ企画は、5、6本の脚本やプロットを残して空中分解したと思われていたが、『太陽を盗んだ男』の初期段階に、村上が参加していたということになる。実際にどの程度関わっていたのか、これだけでは確証が持てないが、筆者が閲覧した脚本の各稿にも、完成した映画にも、村上の名はなかった。
それにしても、村上の関わりが事実とするならば、〈原爆〉という装置をどう扱おうとしていたか、興味が尽きない。というのも、1977年2月10日号の『GORO』で、長谷川が特別被爆者であることを明かし、「オレって、被爆とかああいうことを社会正義的に考えられないんだよ。あんまり怒りみたいなものが出てこないのな。単純につかないと思うだけで」という彼に、村上は、「頭の中に収まりきらないもの、あの問題は」と、わずかに口にするのみだったからだ。
それから半年もしないうちに、長谷川がアメリカで出会ったレナード・シュレイダーは、同じことを聞いて『太陽を盗んだ男』の原案を生み、瞬く間にプロットを書き上げて、長谷川の次回作に決定してしまうのだから、「頭の中に収まりきらないもの」としか応じることは出来なかった村上としては、心中穏やかではなかったのではないか。
後に村上が著した『五分後の世界』(幻冬舎)では、広島・長崎の後にも小倉・新潟・舞鶴に原爆が投下されたパラレルワールドという設定になっており、同時期に発表された『昭和歌謡大全集』(集英社)には、主人公が原爆を手に入れようとするくだりがある。そして、核兵器に匹敵する燃料気化爆弾を、〈貧者の核兵器〉と称して作成し、街の上空で炸裂させる。
もし、『太陽を盗んだ男』の初期段階に村上が関わっていたとするなら、後年の村上が、自作に原爆を取り入れたのは、10数年越しの長谷川への回答だったと思うのは、いささか穿ちすぎだろうか。
結局、村上龍にとっての1977年は、映画人に才能を浪費させられただけの時間だったのだろうか。この時代を回想して、こう記している。
「オレは二十五歳で最年少だった。
『限りなく透明に近いブルー』『海の向こうで戦争が始まる』の二つを書いていたけど、出版社の人達は、オレにあまりきついことを言うことはなかった。
だが、その映画のチームでは、脚本を書いて持っていくたびに、みんなからケチョンケチョンに言われて、ショックだった。(略)みんな、よく書けている部分は別に当然だとほめてくれないで、弱い部分を、どうにかしろ、と言うのだ。
そんなことはそれまでの二十五年間で初めてだったから、最初は本当に参った。
でも、この野郎、なめんなよ、と思って、何回も何回も脚本を書き直して、ミーティングに臨んだものだ。
考えてみれば、その五、六本の脚本が『コインロッカー・ベイビーズ』につながったのだった」(『すべての男は消耗品である。vol.3』)
芥川賞受賞後の一年あまりにわたる「みんなからケチョンケチョンに言われ」る時間は、村上龍に限って言えば、無益な時間ではなかったようだ。少なくとも、『コインロッカー・ベイビーズ』という、後に何度も映画化の噂が流れながら、誰も到達できない傑作を生み出した原点には、長谷川との濃密な時間が流れていたのである。