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『太陽を盗んだ男』を放った、ゴジと呼ばれた男【そのとき映画は誕生した Vol.4 前編】

©1979 TOHO CO., LTD. / Tristone Entertainment, Inc.

『太陽を盗んだ男』を放った、ゴジと呼ばれた男【そのとき映画は誕生した Vol.4 前編】

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『笑う原爆』誕生



 前述の『GORO』で学生映画の監督たちと座談会を行ってから半年ほどが経過した頃というから、1977年末頃と思われるが、立教の学生である黒沢清のもとへ、長谷川から電話がかかってきた。新作のプロットを読んで意見を聞かせろというのだ。この時期、長谷川はレナード・シュレイダーの手を離れた原爆映画の脚本を、1人で改稿作業にあたっていた。


 呼び出された黒沢は、一読するや、「つまらない、とか、これは駄目だとか、これはこうやった方がいい、とか、いちいち事細かに傲慢な批評をしました」(『黒沢清の映画術』)という。


 それが長谷川を喜ばせた。映画作家の予備軍たる助監督は、監督の指示にただ従うのではなく、演出家の視点から批判するなり、対案を示すことを求めてきた長谷川にとって、黒沢のような〈生意気な存在〉は、刺激を与えた。


 これをきっかけに、黒沢は助手的な役割で脚本執筆に携わることになった。もう一人、『青春の殺人者』で助監督を務めた相米慎二がそこに加わった。今となっては実に豪華な顔合わせに思えるが、日活の助監督時代から親しい相米はともかく、学生映画を撮っただけの無名の黒沢を引き入れた長谷川の審美眼の確かさには驚かされる。


 執筆作業は、1か月ほどかかったという。黒沢は夕方に長谷川宅へ向かい、相米は同時期に村上の初監督作『限りなく透明に近いブルー』(79)の助監督に付いていたことから、夜になってから遅れて参加する日々が続いた。


 黒沢によれば、作業は「僕が書いたのと相米さんが書いたのを長谷川さんが見て、再び長谷川さんが書く」(『甦る相米慎二』)という方法が取られたという。1つのシーンを別々に書くことで、どちらかを採用したり、そこから刺激されて、全く新たな発想が生まれることがある。全盛期の黒澤明が脚本を書く際に行った手法と同様のものだ。


 長谷川の目には、この2人は対象的な存在として映っていたようだ。脚本執筆時の様子について、こう語っている。


「黒沢はやたら変な具体ばかり書く。でもこれは百個に一個使えるんだ。『具体』だから。相米は論文しか書かないんだよ。観念が通底してるかどうかを探ってるんだ。(略)あるシークエンスが終るたびに相米に訊くんだ。『おい、ここまでは観念的にはこれで良いのか?』って。『良いんじゃないか。次行こう』と、判定を下すのは相米の役目みたいな感じだった」(『映画芸術』NO.401)


 黒沢が書いた〈具体〉を完成した映画から挙げれば、主人公の城戸誠が、ラジオDJの沢井零子から話しかけられる場面がそれである。このとき、城戸は両手をビルの壁に押し当てて踏ん張っている。戸惑いながら沢井が声をかけると、城戸は、急に手を離したら倒れてくると無機質に言う。その場で互いについて語っていると、城戸は思い出したように、ビルが倒れてくるから手を貸すよう求め、沢井もつられてビルの壁に手を当てて支える――。


 この本気とも冗談ともつかない奇妙なシークエンスは、小林信彦が『世界の喜劇人』で〈戦後の最高最大のギャグ〉と絶賛したマルクス兄弟による『マルクス捕物帖』(46)の冒頭で描かれた有名なギャグをアレンジしたものだ。


 1979年1月、最初の脚本が印刷された。キャスティング、配給などの撮影、公開に向けての交渉材料となる準備稿である。タイトルには、『笑う原爆』と記されていた。


中編に続く


※参考文献は「後編」に一括掲載します。


(前編・了)



文:吉田伊知郎(モルモット吉田)

1978年生。映画評論家。『映画秘宝』『キネマ旬報』『映画芸術』等に執筆。著書に『映画評論・入門!』(洋泉社)、『映画監督 大島渚の戦い』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)、共著に『映画監督、北野武。』(フィルムアート社)ほか



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配給: 東宝

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