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『太陽を盗んだ男』を放った、ゴジと呼ばれた男【そのとき映画は誕生した Vol.4 前編】

©1979 TOHO CO., LTD. / Tristone Entertainment, Inc.

『太陽を盗んだ男』を放った、ゴジと呼ばれた男【そのとき映画は誕生した Vol.4 前編】

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長谷川和彦vs村上龍



 1976年10月17日に放送された教育テレビ『若い広場』は、「村上龍と現代の青春」と題して、『限りなく透明に近いブルー』で芥川賞を受賞したばかりの新進作家・村上龍をフィーチャーした回となった。若者による辛辣な村上批判のインタビューが流れたあとで、村上と長谷川和彦の対談が始まった。この日、初めて顔を合わせた2人は、収録後に飲みに出かけ、そのまま村上の自宅で一夜を明かすことになった。当時、村上は24歳、長谷川は30歳である。


 その後、雑誌『GORO』(77年2月10日号)の対談で再び顔を合わせたときには、「映画作ろうぜ」と長谷川が持ちかけた。村上は「勃起度の高い映画を作りましょう」と応じ、自分が脚本を書くと宣言した。


 これが社交辞令で終わらなかったのは、村上が本気で映画作りを志望し、映画製作の受け皿に、キティ・レコード代表の多賀英典がいたからだった。


 井上陽水、小椋佳らの音楽ディレクターを担ってきた多賀は、映画と音楽の組み合わせが大きな影響を持つことを実感していた。やがて出版界から映画界へと進出した角川映画の登場へ押されるように、多賀も映画製作のための組織(後のキティ・フィルム)を作ろうとしていた。「惚れた個性には、金は糸目なくつぎ込むだけの覚悟はいつももっている」(『週刊プレイボーイ』77年3月15日号)という熱量あふれる多賀は、友人を介して知り合った長谷川と、彼が連れてきた村上を交えて、1977年の初頭から1か月にわたって連夜の企画会議を持った。


 このとき村上が提案したのは、マラソンをモチーフにした映画だった。ちょうど、短編小説『ニューヨーク・シティ・マラソン』を発表したばかりだったが、それとは違った内容の映画を構想していた。


 2月19日の夜も、マラソン映画の企画検討が行われていたが、長谷川は、それをどうやって撮影するかを考えていた。果たして、大規模なマラソン大会を映画の中で再現できるのか。そんな不安をよそに、村上は意外なことを言い始めた。明日、青梅マラソンが行われ、1万人以上が参加するというのだ。村上としては、それを見に行って映画の参考にしたらどうかという程度の発言だったのだろう。だが、長谷川は違った。それならば、見学ではなく、劇中に使用する映像として、撮影してしまえば良いではないか。


 飛ぶ鳥を落とす勢いとは恐ろしいもので、前日夜の思いつきにもかかわらず、翌日の午前5時半には、『青春の殺人者』の撮影を担った鈴木達夫を中心とした撮影チームが集結し、3台のアリフレックスキャメラが用意されていた。こうして、長谷川和彦監督第2作となるフィルムが、急遽回り始めた。


 この撮影には、村上も首からビューファインダーを下げて参加していた。その理由をこう語っている。


「映画のことはまだ何も知らないんで、助監督の下働きから始めるよ。現場でみんなと一緒に汗を流してみたい。今度の映画には、一応、原作・脚本の立場で参加することになると思う……」(『週刊プレイボーイ』前掲)


 これは、長谷川が「他業種の人間が、他業種で得た力でもって、監督をポンとやったりする時は、特に悪い意味で舞い上がる」(『映画芸術』00年冬号)という危惧を持っており、やがて監督をするであろう村上に、助監督を経験しておくよう勧めたからでもある。


 撮影に密着した前述の『週刊プレイボーイ』によると、長谷川はスタッフに「映画の状況設定は冬と限らないからな。ロングのレンズを使って、周囲の季節感はカットしろ」「走る集団がじょじょに押し寄せる感じが欲しいな」といった指示を飛ばしていたことからも、テスト撮影などではなく、映画の本編に使用するつもりの撮影だったことがわかる。


 11回目となるこの年の青梅マラソンは、出場者数が初めて1万人を突破する大規模な大会となった。撮影のために再現することは不可能なだけに、電光石火の速さで撮影隊を仕立てた長谷川の判断がプラスに転じたと言えよう。この日、回ったフィルムは4,000フィート。約45分の映像が収められた。


 前作の『青春の殺人者』は低予算で製作されたためにフィルムの工面に苦労し、クライマックスの炎上シーンでは、フィルムが足りずに撮影が延期されたこともあった。それを思えば、今回は多賀というパトロンを得て、潤沢な製作環境を長谷川は手にしつつあった。


 一方、村上はこの日の撮影について、こう記している。


「緊張してしまって、恥ずかしい話だけど遠足に行く子供みたいだった。別に何か重要なポジションで仕事をしたわけではない。尊敬するカメラマン、鈴木達夫さんの後から、ノコノコ走ってついていっただけだったが、やっぱり面白かった。現場はエキサイティングだ」(『村上龍全エッセイ 1976-1981』)


 その後の予定としては、3月31日までに村上が第1稿脚本を完成させ、同時に主要キャストを決定し、7月にクランクインすることが予告されていた。ところが、青梅マラソンの先行撮影を最後に、この企画は鳴りを潜めてしまう。




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