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『太陽を盗んだ男』を放った、ゴジと呼ばれた男【そのとき映画は誕生した Vol.4 前編】
脚本家 レナード・シュレイダー
1977年春、長谷川和彦は雑誌の仕事でアメリカへ向かった。この旅では、シルヴェスター・スタローン、ドン・シーゲル、マーティン・スコセッシらと邂逅し、大きな刺激を受けることになった。
その中でも、最も親しくなったのが、レナード・シュレイダーだった。『タクシードライバー』(76)の脚本で知られるポール・シュレイダーを弟に持ち、彼と共同で脚本を書き、ロバート・ミッチャムと高倉健が出演した『ザ・ヤクザ』(74)が大きな話題を呼んだことで知られる脚本家である。
レナードは日本の大学で講師経験もあり、後には山田洋次監督『男はつらいよ 寅次郎春の夢』(79)、相米慎二監督『ションベン・ライダー』(83)、ポール・シュレイダー監督『MISHIMA』(85)に原案、脚本を提供するなど、英語圏と日本語圏をまたにかける活動を見せる稀有な存在だった。それだけに、長谷川と意気投合したのも、ごく自然な成り行きだったのだろう。初対面の村上龍の家に転がり込んだように、長谷川はレナードの家へ泊まり込んで、互いの出自を語り合う中で胎内被爆の話もでた。
いつか一緒に仕事しようというレナードの言葉を、社交辞令と聞き流して帰国した長谷川だが、それから半年もしない1977年6月に、新作の企画を手にレナードが来日した。長谷川によると、レナードの最初のアイデアは、こんな内容だったという。
「何でもない兄ちゃんが1人で原爆を作り、政府にプレゼンテーションして9番だと名乗る。つまり原爆保有国が8つあるけれどそいつは9番目の保有者というわけだ。それでそいつが最初に政府につきつけた要求はテレビのナイター中継を最後まで続けろということ」(『キネマ旬報』79年10月下旬号)
この時点での仮題は、”The Kid Who Robbed Japan”だったが、『太陽を盗んだ男』のセントラルアイデアが、すでに完成していたことがわかる。
長谷川は即座にこの企画へ乗った。物語の骨格が明確という点も、村上龍と共に検討していた企画たちと大きく違うところだった。
レナードの企画に大いに乗り気になったものの、村上の脚本に最後まで納得できなかったように、長谷川はそのアイデアを手放しで称賛したわけではなかった。それどころか、大いに不満であると告げて、2つの要求を出した。1つは、主人公を追う刑事は、黒澤明監督の『野良犬』(49)に登場した三船敏郎のような刑事――つまりは、野性味あふれて獲物を追って執拗につきまとう無骨な存在にすることだった。
もう1つは、原爆製造の過程で主人公を被爆させることだった。その意図を、長谷川はこう語る。
「原爆の恐怖ってのも描きたいから被爆シーンは欲しい。だけど、東京を作って東京を壊すってのは出来ないな、これは。(略)窮余の一策が主人公の汚染だ。主人公が放射能に冒されて加害・被害が一人の人物の上に重なるわけだ」(『週刊現代』79年11月1日号)
日本人が、原爆を作って加害者になると同時に、被害者にもなるというアンビバレントな存在になることが、日本でこの映画を作る意味があるというわけだ。