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『太陽を盗んだ男』を放った、ゴジと呼ばれた男【そのとき映画は誕生した Vol.4 後編その1】

©1979 TOHO CO., LTD. / Tristone Entertainment, Inc.

『太陽を盗んだ男』を放った、ゴジと呼ばれた男【そのとき映画は誕生した Vol.4 後編その1】

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※本記事は物語の詳細に触れているため、映画未見の方はご注意ください。


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撮影開始



 企画開始から2年弱を経た1979年4月25日、『太陽を盗んだ男』はクランク・インを迎えた。予算をはじめ、難題を山積させたままの見切り発車だった。


 最初に撮影されたのは、主人公の中学教師・城戸誠を演じる沢田研二が、生徒を引率して遠足へ向かうバス車内のカット。


 この日は箱根高原で遠足シーンの撮影も行われている。城戸が男子学生と相撲を取るカットでは、同体で倒れるという設定だったが、3人と組み合ったところ、沢田はことごとく負けてしまい、中学生の子役から、「軽いんだね」とからかわれて意気消沈する一幕もあった。なにせ撮影までに、「マッドボンバーの肉体になってこい」と長谷川和彦から指示されて鍛えてきた沢田としては、出鼻をくじかれるような初日となった。


 26日は、ゲームセンター、バッティングセンターでの沢田を撮った後、ホテルニューオータニで製作発表会見が行われた。出席したのは、製作の山本又一朗、監督の長谷川和彦、そして主演の沢田と菅原文太である。


 まず山本が、「被害者を描くよりも加害者を描く方が、むずかしくまたおもしろい。この作品は原爆を悲劇の次元でとらえていないんです。金も力もない若い奴が『力』を持ったらどうなるか、という話で、原爆の実害とか重苦しさは出てきません」と作品の意図を説明する。


 それを受けて長谷川も、「これは友情と対決の物語と思っていただければ結構です。犯罪者が死ぬのはあたり前で面白くない。(略)今までにも原爆に泣く名作は多かったけれど、面白くしかも真面目なものをつくりたい」と語った。


 主演の2人は、「どでかい話なので、青春映画が撮れるのもこれが最後のつもりで大暴れしたい」と沢田が言えば、文太は「ウチの子供たちもジュリーが出るんなら絶対に見るといってます。ジュリーに負けないよう久々の刑事役に頑張る」と、陽性のエンターテインメントになることを予感させて、会場の空気を和らげた。


 文太が「久々の刑事役」と言っているのは、深作欣二監督の『県警対組織暴力』(75)で演じた刑事役以来という意味である。まるで同作から抜け出してきたようなスーツ姿も凛々しい文太の本格的な撮影は、翌日から始まった。まず、警察署、刑事部屋、対策本部、長官室のセットが日活撮影所に組まれ、5月の連休明けまで集中的に警察側の場面を撮ることになった。


 このとき文太は、長谷川から思わぬ指摘を受けたと語る。


「クランク・イン当初からヤクザ映画のクセを全部洗い落としてくれと要求があったね。肩ゆするとか、体が自然に微妙にゆれたり動いたりの、10年しみついたクセみたいなものを押さえこんで、衣紋カケが50日間肩ンとこに入ってるみたいな、感じ。一動作ごとにバンバン要求がとんでくる」(『平凡パンチ』79年10月8日号)


 どんな役を演じても、独特のリズムを崩さない俳優がいる。それが味だと評価されることもあれば、何を演じても同じだと批判されることもある。こうした俳優は、自分のリズムで台詞を言うくせがついているので、それが封じられると、あからさまに演技のバランスが崩れる。


 文太にとっても、長年身についた演技の癖を、一回り以上年下の監督から指摘されるのは愉快なことではなかっただろう。それでも、「限界までは、ゴジさん(引用者注:長谷川の愛称)はたいがい近づいて、迫ってくれる」(『平凡パンチ』前掲)と語るように、長谷川に全幅の信頼を置き、その要求に応えていった。




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