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『太陽を盗んだ男』を放った、ゴジと呼ばれた男【そのとき映画は誕生した Vol.4 後編その1】
沢田研二の執念
5月の連休明けとなる9、10日は、サテライトスタジオのオープンセットで、池上季実子が演じるゼロこと沢井零子の公開収録場面のロケが行われた。もっとも、ドーム状の狭いセットに入れられる池上はたまったものではなかったと証言する。
「炎天下に、新宿の高層ビルのところにプラスチックのドーム作って、ドームの中は冷房も何もなくて、(略)もう暑くて暑くて、それでDJ役だから、バーっと喋りまくるわけ。ともかく長いカットだから、セリフを言うのが、もう精いっぱいっていう感じなのね。ゴジが20回も30回も、それをテストして、季実子、ここの一行だけセリフを変えてくれっていうのね」(『キネマ旬報』84年6月上旬号)
6月に入ると、日活撮影所に組まれた自宅アパートのセットで、沢田が原爆を製造する場面の撮影が行われた。ここで、長谷川のねばりに拍車がかかった。
当人曰く――「原爆製造過程は、ワル丁寧にやってみた。この件りが本質的には、あの映画の中で唯一最大のアクションシーンだと思ってたしな。そこだけが、最初一時間半あったよ。『原爆の作り方』ってHOW TOモノの映画が一本軽く出来るくらいだった。それを切って切って13分にした」(『映画芸術』89年秋号)。
商業映画の撮り方としては明らかに異質だが、そのディテールの厚みが本作を支えているだけに、長谷川にとっては妥協できない場面だったのだろう。
この場面では、4分にわたる長回しで原爆の製造過程を撮ったくだりがある。しかし、後半になると上手くいかず、沢田は毎回NGを出してしまう。17回連続NGが出たときは、さすがに長谷川も前半と後半を分けて撮ろうと提案した。しかし、沢田は土下座せんばかりの勢いで、もう一回だけやらせてくれと懇願した。
そこまで執念を見せた理由を、沢田が明かしている。
「ボクはもうとにかく、監督がヨシって言うまでは、絶対にギブアップしないというつもりでいたから」(『平凡パンチ』前掲号)
沢田にとって、この映画に期するものがあったことは、1978年に行われた山口百恵との対談(『平凡』78年8月9日号)からもうかがえる。沢田は、「長谷川和彦さんで映画をやろうと思ってるんですよ」と来年の予定を語り、山口に出る気はないかと声をかけている。すると山口は、「私も、一度長谷川さんと映画をいっしょにやりましょうと話したことがあるんです」と語っている。
長谷川が山口と対面したのは、1977年のカンヌ映画祭批評家週間に『青春の殺人者』が上映されたときのことだった。ちょうどCM撮影で南仏へ来ていた山口は、自身の主演作『春琴抄』(76)が見本市で上映されることもあり、カンヌのパーティで長谷川と同席したのだ。この席に立ち会った映画評論家の田山力哉は、「ゴジは彼女に気にいられようとむなしい努力をしていた」(『新しい映画づくりの旗手たち』)と、その様子をスケッチしている。
それはともかく、山口の『太陽を盗んだ男』への出演は実現しなかったが、沢田との対談で興味深いのは、多忙な日々を送る2人が、「いっぱい時間をかけてのんびり撮るんでしょうネ」「80日はスケジュールを出してほしいと言われたけど」「私(山口)の映画のスケジュールは1か月ぐらいなんです。だからすごいですよ。多少条件悪くても、がまんしてやっちゃう」と語り合っているところだ。映画をやるのならば、じっくり時間をかけてやりたいという願望は、2人にとって共通の思いだったのではないか。
後に沢田はこう語っている。
「芝居に一生懸命になったのは、『太陽を盗んだ男』で報知新聞の映画賞の主演男優賞をもらってしまってからです。これは頑張らないといけないと思って。それまでは映画の面白さがわからなかったというか、なんか僕に合った監督に会ってなかったというのか……、僕の性格を見抜いて長谷川和彦さんは、ねばって、ねばって、いいところが出るまで、やらしてくれましたからね」(『我が名はジュリー』)
本作は日本の商業映画ではありえない量の膨大なフィルムを消費することにもなったが、時間に追われながら次々と仕事をこなしてきた沢田にとっては、演技開眼をもたらす貴重な時間となった。