1. CINEMORE(シネモア)
  2. NEWS/特集
  3. 『太陽を盗んだ男』を放った、ゴジと呼ばれた男【そのとき映画は誕生した Vol.4 後編その1】
『太陽を盗んだ男』を放った、ゴジと呼ばれた男【そのとき映画は誕生した Vol.4 後編その1】

©1979 TOHO CO., LTD. / Tristone Entertainment, Inc.

『太陽を盗んだ男』を放った、ゴジと呼ばれた男【そのとき映画は誕生した Vol.4 後編その1】

PAGES


契約期限



 4月25日に始まった撮影は、7月にクランク・アップを迎える――はずだった。これは、当時のメジャー映画としても恵まれた撮影条件であり、十分なスケジュールが確保されていた。


 前述したとおり、本作の悠々とした撮影は、沢田の演技開眼や、長谷川と文太が通じ合う瞬間など、時間をかけたことでもたらされたものもあったが、現実に目を向ければ、やがて破綻がやってくるのは目に見えていた。契約期間の終了である。


 沢田を出演させるにあたって、渡辺プロダクションからの条件は、7月で出番を終えることだった。この年の夏、沢田は恒例のツアーが控えており、7月28日の渋谷公会堂から「ROCK'N TOUR '79」が始まろうとしていた。


 文太も、『トラック野郎 熱風5000キロ』(79)の撮影があり、主演の2人は次の仕事へと軸足を移しつつあった。


 撮影現場でスケジュールを決定するのは、チーフ助監督の役目である。監督の演出スタイルを把握し、各シーンの撮影に必要な時間を見積もり、スケジュールを出す。『太陽を盗んだ男』でその役目を担ったのは、相米慎二だった。ところが、長谷川の現場では、それがまるで機能しなかった。


 録音の紅谷は、「ゴジは強引ですから、仕切るのは無理なんです。ゴジは相米のことを子分のように思っていて、言うことを聞くわけがない」(『音が語る、日本映画の黄金時代』)と相米を擁護する。


 現場プロデューサーの伊地智啓からも責められた相米は板挟みになるが、チーフ助監督の言うことに耳を貸さないならば、伊地智が直談判するしかない。紅谷はその様子も記憶している。


「伊地智はゴジにしょっちゅう文句を言っていましたが、半分以上撮ると監督の方が立場は強いですからね。文句を言われてもゴジは唸っているばかりで、ペースは上がらない」(『音が語る、日本映画の黄金時代』)


 こうなると、もうお手上げである。長谷川自身も、「テレビ映画を五日で一本撮ってしまう人は、プロだし、あれはやっぱり才能だと思うよ。ただ、そのテの才能はおれにないしね」(『週刊現代』79年11月1日号)と語るように、職人的技能はないと認めている。


 とはいえ、日活ロマンポルノで助監督を務め、監督以上に監督のような雰囲気で現場を取り仕切っていると言われた長谷川は、低予算・短期間の撮影をこなす実務能力も備えていたはずだが、自分の映画作りとなると話は違ったようだ。


 その背景には、長谷川が初めて映画作りに参加したのが、今村昌平監督の『神々の深き欲望』(68)だったことがあるのではないか。同作は、撮影期間が2年に及んだことで知られている。それが最初の撮影現場だった長谷川は、その後、日活へ出向して助監督を始めたときの驚きを、こう語っている。


「今村プロに3、4年いて、今平さんだけがカリスマの世界にいたから、監督っていうと全てそれはイマヘイのことでさ。それが撮影所へ行ったら、何だ、監督なんて何十人もいるじゃないか」(『映画芸術』98年春号)


 長谷川の映画作りの原点には、〈映画監督=今村昌平〉という強烈なイメージがあった。自ら監督するときにも、時間をかけて映画を作る今村の姿が、知らず知らずのうちに基準となっていたのではないか。


 すでに、デビュー作の『青春の殺人者』でも、その気質は現れていた。同作でプロデューサーを務めた大塚和は、「フィルムは3万3千フィートの予定を5万3千フィートも回しちゃうし、撮影日数は30日の予定が50日、予算も1600万円のところが2千万円を軽くオーバー」(『週刊明星』76年10月24日)と、長谷川が制約を平気で破ると証言する。


 もっとも、長谷川からすると、「映画ってのは偶然の産物が非常に多くて、だから時間かけてやってると、それが撮れる」(『平凡パンチ』79年10月8日号)と悪びれる様子もなく、重要なシーンになると、スケジュールなどあってないようなものになった。


『太陽を盗んだ男』は東宝の配給作品だが、監督やプロデューサー、大半のスタッフは映画会社に所属する社員ではなく、フリーランスか制作会社に所属する立場だった。日活所属の身分のまま参加した照明の熊谷秀夫は、それが撮影の遅延を招いたのではないかと次のように指摘する。


「フリーの場合は、一日や二日こぼれてもいいだろうという形だから、それはフリーのルーズさですよね。まあ何とかなるわ、という。それで怒る人もいなけりゃ、誰かが責任持つこともない。だからときどき、思いましたよ。フリーってのはだらしないなあと」(『照明技師 熊谷秀夫 降る影 待つ光』)


 とはいえ、責任をすべて長谷川に押し付けるべきではないだろう。そもそも、脚本が短縮できないまま、製作費もオーバーする状況で撮影に入るという蛮勇がまかり通ったのは、音楽畑から派生した製作会社のキティ・フィルムが、既存の映画会社とは一線を画した立ち位置にあったことが大きい。代表の多賀英典と、製作を担う山本又一朗がゴーサインを出したために、トップ判断で撮影を強行突破することになったのだ。


 事実、山本は「スタート時から一億七千万円足りないという現実がある。だけど僕はそれを承知で契約した。あとは借金をしようが何をしようが僕の責任で映画を完成させなければならないというリスクを背負った」(『キネマ旬報』79年7月上旬夏の特別号)と語る。


 しかしながら、当然、そのしわ寄せはやってくる。山本は撮影中、日活撮影所のスタッフルームで、未撮影部分から3千万円を削るための会議を行ったことを記憶している。終日の打ち合わせで、270万円を削ることに成功したが、特定のシーンをバッサリとカットしてしまわないかぎり、大鉈を振るうのは無理な相談だった。




PAGES

この記事をシェア

メールマガジン登録
  1. CINEMORE(シネモア)
  2. NEWS/特集
  3. 『太陽を盗んだ男』を放った、ゴジと呼ばれた男【そのとき映画は誕生した Vol.4 後編その1】