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『トキワ荘の青春』伝説のアパートを舞台に描く若き漫画家たちの光と影(後編・撮影編)

©1995/2020 Culture Entertainment Co., Ltd

『トキワ荘の青春』伝説のアパートを舞台に描く若き漫画家たちの光と影(後編・撮影編)

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『トキワ荘の青春』あらすじ

東京都豊島区にある木造アパート「トキワ荘」。そこには“漫画の神様”手塚治虫(北村想)が住み、日夜、編集者たちが彼のもとに通いつめていた。向かいの部屋に住む寺田ヒロオ(本木雅弘)は、その様子を眺めながら、こつこつと出版社への持ち込みを続けていた。やがてトキワ荘を去った手塚治虫と入れ替わるように、若き漫画家の卵たちが次々に入居してくる。藤本弘/藤子・F・不二雄(阿部サダヲ)、安孫子素雄/藤子不二雄Ⓐ(鈴木卓爾)、石森章太郎(さとうこうじ)、赤塚不二夫(大森嘉之)、森安直哉(古田新太)、鈴木伸一(生瀬勝久)。また近所に住むつのだじろう(翁華栄)もトキワ荘に入り浸っていた。揃って『漫画少年』の投稿仲間だった彼らは、寺田を中心に“新漫画党”を結成。貧しい生活のなか、互いを励ましあい、漫画の未来について熱く語り合う日々が続く。なかでも一番年上の寺田は兄貴分的存在として若き彼らを静かに見守り、その視線は、赤塚の友人であり自分とはまったく異なる作風のつげ義春(土屋良太)にも向けられていた。そんなある日、『漫画少年』の出版社、学童社が突如倒産。これを機に、8人の仲間たちの進む道も少しずつ変化していく。どんどん売れっ子になっていく者。漫画からアニメーションへの移行を決意する者。なかには東京を去る者もいた。流行に惑わされず、黙々と自分の描きたい漫画だけを追い求めているように見えた寺田の心にも、徐々に迷いが生まれてくる。時代の激しい変化とともに、漫画家の卵たちの青春の日々にも、ゆっくりと終わりの気配が近づいていた――。



〈トキワ荘神話〉の始まりから映画化までを追った前編(企画編)に続き、後編(撮影編)では、脚本執筆から撮影の詳細まで、実際の映画制作についてひもといていきたい。


※前編はこちらから


Index


セットで再現されたトキワ荘



 阪神淡路大震災の3日前にあたる1995年1月14日、市川準の長編映画7作目となる『東京兄妹』(95)が公開された。2月5日、カルチュア・パブリッシャーズの出資で、市川の次回作は正式に『トキワ荘の青春』と決定。それを合図に脚本執筆に向けての取材もスタートすることになったが、幸い当時はトキワ荘関係者の多くが存命で、取材を行うことが可能だった。


 同月15日、市川はトキワ荘在住組の石ノ森章太郎の自宅を訪ね、その日は続けて新宿の京王プラザホテルで、トキワ荘通い組の、つのだじろうにも取材を行っている。25日には、すでに故人となっていた寺田ヒロオの未亡人と長女に面会している。


 市川が現役CM監督であることを感じさせるのは、映画の準備中でもひっきりなしに――それこそ1か月に数本のCM演出を手がけていることである。例えば、石ノ森・つのだの取材を終えた翌16日には鹿児島へ移動し、17日に撮影。そこから編集作業を行いながら次のCMの打ち合わせを行っている。寺田の遺族に会った翌日の26日には、郷ひろみと浅野ゆう子が共演するCMを撮っているのだから、その多忙ぶりは呆れるほどだ。この時期は、市川が手がけた宮沢りえが出演するカンチューハイCMのオンエアが始まり、おりから東映の『』(95)を宮沢が降板したことがワイドショーを騒がせており、そのゴタゴタに市川も巻き込まれる始末で、映画を撮っている間よりも、映画の準備期間の方が慌ただしい。


 喧騒に満ちた広告業界に身を置きながら、市川の映画は打って変わって静謐な世界になるが、どうやらその落差を楽しんでいたとおぼしい。実際、映画の撮影中でも、市川だけは撮休日にCMの現場にとんぼ返りすることがあったというから、極端な2つの世界を往来することが刺激になっていたのではないだろうか。そうでなければ、生涯にわたって映画監督とCM監督の二足のわらじを履き続けることはなかっただろう。そうした慌ただしい生活のなかだからこそ、東京の過去へ思いをはせる『トキワ荘の青春』が生まれたとも言える。


 製作準備が進むにつれて最大の問題となったのは、舞台となるトキワ荘をどうするか、という点だった。アパートの映画だけに、トキワ荘をどうやって再現するかが映画の成否を握ると言って良い。選択肢としては、現存する古いアパートをトキワ荘に見立てて撮影するか、セットで作るか、ということになる。市川はロケハンで多くのアパートを見て回ったが、バブル狂乱後の東京では、昭和20年代のアパートはすでに多くが姿を消していた。


『トキワ荘の青春』©1995/2020 Culture Entertainment Co., Ltd


 この作品の少し前に、昭和初期のアパートを舞台にしたローバジェット映画が作られていた。実相寺昭雄監督が江戸川乱歩の原作を映画化した『屋根裏の散歩者』(94)である。このときは、日活撮影所のスタジオに昭和初期のアパートを再現したセットが組まれた。実相寺はロケを一切行うことなく、スタジオのセットだけで濃密な昭和初期の空気を再現させていた。


 市川もまた、セットでトキワ荘を再現することを決意する。というより、撮影に使えるアパートがなかったために、そうせざるを得なかったのだ。製作費の約4分の1を費やしてセットで作られたトキワ荘は、外観と室内の2つが作られた。


 大映で溝口健二監督作品の美術助手を経て、『白い巨塔』(66)、『盲獣』(69)などの美術監督を務めてきた間野重雄の腕の見せどころである。市川とはCMの現場で知り合った間野は、トキワ荘に漫画家たちが暮らし始めた時期には、すでに美術監督として1本立ちしていた。また、大映倒産後はATGや独立プロの低予算映画でも限られた予算で効果的な美術を作り出していただけに、本作のような低予算映画の効果的なセットの作り方も熟知している。


 トキワ荘をセットで再現するために、間野は漫画家たちから提供してもらった写真をもとに、部屋だけでなく、玄関、廊下、柱などの寸法を割り出した。同じ構造のアパートの場合、セットは一部屋だけ作り、飾り変えて複数に見せることもあるが、本作では寺田、藤子、石ノ森、赤塚、鈴木と森安らの部屋を別々に作るというこだわりぶりで、その完成度は、見学に訪れたかつての住人漫画家たちを驚嘆させた。


 同じ作りの部屋で、全員が机に向かって漫画を描いていることが多いだけに、各部屋の違いをどう見せるか。間野と市川がこだわったのは小道具である。取材によって、寺田は児童文学の大家、坪田譲治を好んで読んでいたことや、『イヴの総て』(50)の女優アン・バクスターのブロマイドを部屋に貼っていたことなどをヒントに、セットの飾り付けにも反映させた。市川も間野も、小物が好きということもあって、各部屋の小物の配置を競うように凝り、市川は自宅から私物も持ち込んだ。今回上映されるデジタルリマスター版では、そうした細部を、さらに明瞭に見つめることが出来るはずだ。



『トキワ荘の青春』©1995/2020 Culture Entertainment Co., Ltd


 このセットが完成した後、市川は、各部屋に住む漫画家を演じる俳優たちを集めて、半日セットのなかで過ごしてもらったという。自室でゴロゴロしたり、隣の部屋へ遊びに行ったり、雑談したりと、緻密に作られたセットに馴染む時間を取ったことで、撮影に入るとすんなりトキワ荘の住人になりきれたようだ。


 ちなみに、劇中で描かれる漫画は、それぞれの漫画家たちのプロダクションのアシスタントや、弟子筋の漫画家たちに描いてもらったもので、それぞれのタッチが反映されたものになっている。


 トキワ荘の外観は、日活撮影所の近くの空き地に建てられた。映画を観れば誰もが感じるだろうが、奥行きのある空間にそびえるトキワ荘は、セットとは信じられないほどだ。よくぞアパートをまるまる建てたものだと思ってしまうが、実はこれは極めて限定的に作り込まれたものだった。つまり、画面の手前に見える玄関側と奥の軒先のみが実際に作られたもので、カメラを少しでも横にずらせば、直ぐにセットだとバレてしまうのである。


 本来ならば、そうしたセットは映画を撮る上で不自由な枷となり、観客に予算がないことを露呈させる危険性すらある。しかし、市川のスタイルは引いた視点からの定点観測を意図しているので、同じ位置からトキワ荘の外観を映し続けても違和感はなく、むしろ季節の移ろいを効果的に見せてくれる。トキワ荘の奥に見える家々の屋根は、実際に日活撮影所の近くに建つ家をフレームに入れたもので、借景にすぎない風景が、奥の方までセットで作ったかのように見えてしまうのだからすごい。本作最大の見どころは、トキワ荘の外観と室内セットにありと言っても良いだろう。




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