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スタローンを復活させた『クリフハンガー』大ヒットの裏側とは

(c)Photofest / Getty Images

スタローンを復活させた『クリフハンガー』大ヒットの裏側とは

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『クリフハンガー』日本PRの経緯



 1980年代はシルベスター・スタローンと蜜月な関係だった東宝東和。1982年に配給した『ランボー』が日本でヒットし、プロデューサー のマリオ・カサール&アンドリュー・G・ヴァイナが指揮する制作会社カロルコ・ピクチャーズと複数年に及ぶ日本での作品配給契約を結んだ。1985年の『ランボー 怒りの脱出』では莫大なプロモーション費用を使い大ヒットへと導く。


 東宝東和としては「スタローンにハズレなし!」との確信を抱いていたのだろう。『ランボー』シリーズ3作目にして1988年公開の『ランボー 怒りのアフガン』では相変わらずの宣伝費用大量投入のおかげで大ヒットはしたものの、アメリカ国内では製作費の回収はできず(世界配収では製作費の3倍を稼ぎ出してはいるが)、スタローン含め製作陣営の想像を遥かに下回った結果となってしまうのだった。


 以降スタローンは他の作品でも中々大ヒットには至らず、と同時に同じ肉体俳優でライバル視をしていたアーノルド・シュワルツェネッガーの台頭が目覚ましく、カロルコ・ピクチャーズもシュワルツェネッガーを積極的に起用してヒット作を生み出すやり方へとシフトしていく。


  東宝東和はカロルコ・ピクチャーズの作品を数多く配給していたことから、スタローンとシュワルツェネッガーのアクション俳優カテゴリー内における立場逆転な栄枯盛衰を目の当たりにしてきたわけで、日本からはレーザーディスクのソフトで大儲けをしていたパイオニアLDCにも出資させて作った『ターミネーター2』の大ヒットが彼ら二人の命運を変えて行ったのだ。


 スタローン自身が『ランボー 怒りのアフガン』以降伸び悩んでいた事実は他の作品を察しても分かるとおりだが、東宝東和は『ランボー 怒りのアフガン』で来日させた際、破格のVIP待遇で迎えていた。前述の通り、この時に経験した東京観光でスタローンは日本と東宝東和が大好きになったと言う。


  筆者は1991年~1998年までの7年間、映画関係の広告代理店に属し、主に東宝東和のプロモーションワークを担当していた。入社したばかりの時にカロルコ×東宝東和配給作の今後のラインナップを見るとスタローン主演の『クリフハンガー』が記載されていた。


 とは言え、どのような内容になるかもタイトルだけで は分からず、監督がレニー・ハーリンとも記載されていたことから『プリズン』(87)『エルム街の悪夢4』(88)みたいなホラーか、『ダイ・ハード2』(90)のようなアクション作品のどちらかを想像するしかなかった。しかし東宝東和社内では1990年に公開され大惨敗をしてしまった『フォード・フェアレーンの冒険』的な、登場人物に観客が感情移入しにくい内容だったらと恐々としていたのも事実だ。



 そんな不安を払拭してくれたのが1993年5月の出来事。カンヌ国際映画祭で上映された『クリフハンガー』は大変評判も良く、その直後全米でもロードショーされ見事大ヒット。海外のメディアは口を揃えて「スタローンが再起動」「復活のスタローン、見事アクション映画に返り咲き」など不遇だった5年間の眠りから覚めたスタローンを歓迎するムードになった。


 ところが……、日本での宣伝展開ではスタローン色を一切排除した雪山舞台の山岳アクション的に進めていく方向で決定してしまう。筆者としてはスタローンの大ファンだっただけに相当なショックを受けてしまった。おかげでスタローンのビジュアルも名前も、ポスターやチラシの表面には使うこともなく、日本では1993年夏のサマームービーで公開予定となる。


  社内でマスコミ試写を行なうと評論家の方々からの評判も上々で、夏休み映画にしては宣伝期間が足りなさすぎるのと、東京国際映画祭側が特別招待作品として、秋に渋谷Bunkamuraオーチャードホールで上映をさせてくれるという好待遇な条件が出揃い、急遽冬休み映画にするべく12月へ公開を延期させることとなった。



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