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  4. 『象は静かに座っている』“声無き悲鳴”を映し出す、孤高の234分
『象は静かに座っている』“声無き悲鳴”を映し出す、孤高の234分

『象は静かに座っている』“声無き悲鳴”を映し出す、孤高の234分

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息苦しい世界からの脱走



 経済発展著しい中国では、エネルギー需要が高まり続けており、近年まで石炭の消費も増加の一途をたどっていた。しかし、大気汚染が如実に深刻化した数年前から、エネルギーをガスや電気へ転換させる政策がとられている。本作の老齢男性の境遇がそうであるように、ある日突然に一つの産業が疎まれて切り離されていくことがある。


 時代の大きな流れのなかで、どうしても割を食ってしまう存在は出てくるのだ。本作に登場する街も、境遇に翻弄される人物たちも、自分たちのコントロールの利かないところで、未来が制限されてしまっている。




 対して、国際列車が通る満州里市は、中国政府の新たなシルクロード構想である“一帯一路”の中継拠点であるとともに、外国に接するモンゴル自治区でもあることから、中央の影響を離れた、開かれた印象のある街である。現実に存在する実際の街はどうであれ、少なくとも、そこに象という力強い不動のものがあるというイメージは、寄る辺ない不安にさいなまれ続ける本作の少年たちにとって、希望の象徴となっている。


 『大人は判ってくれない』(59)の主人公であるドワネル少年が、息苦しい場所より外へ外へと逃亡するように、境界を目指すという行為は、現状への不満の裏返しであり、非日常への憧れを示す象徴的なものとなっている。フー・ボー監督も、やはりそのような息苦しさを感じていた一人であったのだろう。彼がこのような物語を書くことも、タル・ベーラ監督の作風に憧れることも、やはりその発露ではないかと思えるのだ。


 長回しで少ないカット数、長い上映時間。人間の孤独さと過酷な環境を写し取るタル・ベーラ監督の特徴を、たしかに受け継いでいるフー・ボー監督の演出は、とても20代のものとは思えない威厳が備わっている。




 だが、師の映像までに硬質ではなく、自然光のなかでステディカメラによって演技者に寄り添うような、現代的に感じられるスタイルは、パーソナルで軽やかな印象が与えられ、ダルデンヌ兄弟監督の作品を想起させられる部分も多い。この対象に近いカメラワークが表現しようとするのは、主人公の認識する世界の狭さと孤独感である。


 要所で奏でられる、前衛的なロックバンド“ホァルン”による、歪まされたギターサウンドが、監督の孤独に対する痛みとともに、ナルシシズムをも感じとることができる。本作にヒリヒリとした鈍い痛みがにじんでいるように感じられるのは、息苦しい世界で生きてきた自分の姿や経験を、どうか見てほしい、そして追体験してほしいという監督の強い想いだったのではないだろうか。



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