2019.11.05
“声無き悲鳴”と“希望の声”
監督が長尺にこだわった理由は、作中の描写を見ていくと、だんだん理解できてくる。例えば、妻の浮気の真相を目撃して、思わず高層から飛び降りてしまう男や、地面に叩きつけられたその死体を、映画は画面にはっきりと映し出すことはない。少年と揉み合いになり、階段から落下する不良の一瞬の姿を、カメラはとらえようとしない。もちろんそれは、技術的な制約によるところも大きいはずだが、それより重要なのは、この映画が重大な出来事をそのまま表現するのでなく、それを目の当たりにする主人公たちの姿の方にカメラが向き、ピントが合っているということだ。
行き場のない少年がニセモノの長距離バスのチケットをつかまされて激しく抗議したことで、チンピラたちに人目のないところに連れていかれる途上で、少年が足を止めるシーンが印象的だ。スクリーンの中の少年も、それを見守る観客も、その先でひどいことが起きるのを知っている。そういう“バッド・フィーリング”を強めているのは、いままでの悲惨なシーンの累積によるところも大きい。“どうせ良いことなんか起きない”のである。
『象は静かに座っている』(c)Ms. CHU Yanhua and Mr. HU Yongzhen
いつでも期待が裏切られる人物たちを描くために、カメラはいつでも彼らを向き、彼らにピントを合わせる。そして、心が“声無き悲鳴をあげる”様子を映し出すのだ。その声を観客に聴かせるために、本作の演出は、悲劇へと向かうプロセスを丹念に描くことで、絶望への道程を観客にも歩ませる。だからこそ本作には長い上映時間が必要だったのだろう。そして観客は、ラストシーンにおいて、絶望の悲鳴とは逆の意味を表す、“ある声”を聴くことになる。