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『mid90s ミッドナインティーズ』自由への渇望を、1枚の板に乗せて――過日の記憶を呼び起こす青春劇

『mid90s ミッドナインティーズ』自由への渇望を、1枚の板に乗せて――過日の記憶を呼び起こす青春劇

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役者から漏れ出る「現代性」が、共感につながる



 90年代の空気感を、色濃く映す『mid90s ミッドナインティーズ』。しかし本作の魅力は、それだけではない。2つ目の魅力は「普遍性」――もっといえば、同時代性に近い“共感”だ。


 90年前半を舞台にした映画を、約25~30年前の“時代劇”として考えたときに、ルックをいくら当時に近づけたとしても、取り繕えないものは何だろう? それは、役者の“役者としての存在”だ。つまり、90年代の若者を演じている役者と、実際の役者が生きている現在のズレ。特に、本作のような青春映画だと、「その時代に生まれていない」役者の肉体が、時としてノイズになってしまう。


 これはフィクションである以上どうしようもない問題だし、制作陣はなるべく違和感のないように作りこみ、観客はフィルターを外して観る、というのが暗黙のルールだ。ただ、90年代という微妙な古さが、その取り決めを曖昧なものにしてしまう気が、しなくもない。舞台が戦時中やそれ以前であれば、「昔の出来事」として受け入れるのは容易といえるが、90年代をどう受け取るかは、観客個人の年齢に左右される部分がまだ大きい。


 だが『mid90s ミッドナインティーズ』は、その部分も、上手く処理している。出演者は『聖なる鹿殺し キリング・オブ・ア・セイクリッド・ディア』(17)のサニー・スリッチ(プロのスケートボーダーでもある)、『マンチェスター・バイ・ザ・シー』(16)や『WAVES/ウェイブス』のルーカス・ヘッジズ、『ファンタスティック・ビースト』シリーズのキャサリン・ウォーターストンといった人気俳優たち。そこに、プロスケーターのナケル・スミスをスティーヴィーの友人であり、生きざまを伝えるキーパーソン、レイ役で投入。さらに、レイの友人たちを演じたのも演技未経験のスケートボーダーだ。




 ここで興味深いのは、本作があえて、役者たちの“現代性”を隠さないということ。既についているイメージを避けて無名俳優や未経験者たちを起用するのではなく、逆に割り切って有名俳優たちで固めるのでもない。役者だけでなく、ナケル・スミスにいたってはアディダスなどと契約を結ぶスケボー界のスターであり、どうしたって現代性は出てきてしまう。


 しかし本作では、人気俳優にスケボー界のスター、未経験者たちをミックスさせることで、逆に「懐古主義に陥りすぎない」という効果を生み出しているように映る。つまり、映像的には90年代だが、その中に置かれた人間たちが(もちろん舞台となる時代に寄せつつも)醸し出す“現在とのリンク”が、観客を「90年代を知っている層」に限定しない、共感のカギになっているのだ。


 ジョナ・ヒルは、『mid90s ミッドナインティーズ』の制作に際し、「ノスタルジック映画、そしてスケート映画にならないことをルールにした」と語っている。これは少々意外で、ぱっと見た感じだと「自分の少年時代を回想する、懐かしさ満点の作品を作ったのではないか」と思えてしまうのだが、意図としてはそうではなかったようだ。


 彼は、こうも語っている。「(スティーヴィーは)『ストリートファイターⅡ』のTシャツは着ているけど、それはただのアクセントであって、フルコースを作りたいわけじゃない」「このストーリーは、人物がメイン」「映画を見た人が彼ら自身の人生の話をしてくれることが嬉しい」と。


 それらの言葉を踏まえて本作を観てみると、邪推かもしれないが、このバラエティに富んだ出演陣は、あえて意図したのではないか?と思えてくる。役者が必死にウソをついて「ここは90年代でござい」と見せていくのではなく、あえて雑多にすることで、今を生きる、劇中の彼らと同年代の若者にもちゃんと届くものにするということ。


 最後の段落では、本作に漂う「共感性」について、もう少し考えていきたい。



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