ご都合主義的な展開を廃した、救済のなさ
そして、全体のちょうど半分に差し掛かるか否かのところで、舞台は夜へと転換。『クリシャ』はいよいよ本質に踏み込み始める。それは、母と息子が確執をどう向き合うか。本作は元々シュルツ監督の叔母と親族の間に生じていた軋轢、そして薬物・アルコール中毒者でもあった父親との実体験をベースにしているという。そこにあるのは、フィクショナルでドラマティックな感動のストーリーではない。現実に根差した、痛みに満ちた展開だ。
クリシャはトレイに過去を懺悔し、許しを請うが、そう簡単に溝は埋まらない。さらに母に会ったことで気が動転し、落ち込んだクリシャは酒に手を出し、全てを台無しにしてしまう。長い時間をかけて調理された七面鳥を床に落としてしまったことが引き金となり、平穏がぶち壊しになる、という演出は、クリシャと家族や親戚の関係性にも重なり、実に示唆的だ。
そして半ば強制的に部屋へと連れて行かれ、眠ってしまったクリシャが起きると、画角が再びスタンダードサイズに変わっている。彼女は激しく後悔し、再び輪に加わろうとするが、親族からは拒否されてしまう。冒頭、本作をプライベート・フィルム的な立て付けと述べたが、この容赦のない、それでいて現実味あふれる展開にハッとさせられる。そんなに簡単に、相互理解も救済も待っているわけがないのだ。現実はそんなに都合よくできていない。
『クリシャ』
母、クリシャ、トレイが着ている服は、みな赤色。これは明確に、血縁のメタファーだろう。みな血が繋がっている。だからこそ受け入れられないし、許せない。身内から疎まれたクリシャは、狭い画角の中で、ただじっと涙をこらえ、我々を見つめる。世界に見捨てられたような彼女の表情は、冒頭の同じアングルで見せたものとはまるで意味も、受け取る側の印象も異なっている。
我々はどこまで、面倒を見ればいいのか? いつまで、許しを請い続ければいいのか? 家族という枷(かせ)に縛られてしまった“被害者”たちを、当事者たち自らが描いた『クリシャ』は、重く鋭く、観る者の心を穿つ。
取材・文:SYO
1987年生。東京学芸大学卒業後、映画雑誌編集プロダクション・映画情報サイト勤務を経て映画ライター/編集者に。インタビュー・レビュー・コラム・イベント出演・推薦コメント等、幅広く手がける。「CINEMORE」 「シネマカフェ」 「装苑」「FRIDAYデジタル」「CREA」「BRUTUS」等に寄稿。Twitter「syocinema」
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2021年4月17日(土)ユーロスペースにて限定ロードショー