見誤れない「完璧には理解できない」前提
『ライトハウス』を観ると、例えばルックにせよ、内容にせよ、それこそ前述した映像・音響に対する異常なほどのこだわりにせよ「なぜこういった形態で、どうしてこんな物語を作ろうと思い至ったのか?」と聞きたくなるのではないか。だが、多分その時点で、観客と作り手はもう決定的にズレている。極端な言い方をすれば、そこを掘っても我々が欲しい答えにはたどり着けないのだ。
なぜならエガース監督(たち)にとって、きっとこうした物語を作るのは必然であり自然であり、自明のことだから。この点を頭に入れて観なければ、我々は灯台の光が届かない漆黒の海をさまよう小舟のように、たちまち迷子になってしまうのではないだろうか。「どうしてこういったシーンを?」という問いに対し、エガース監督の解答は明快だが、その根本を理解することは、なかなか難しい。この映画は、あらゆる面において作り手の“必然性”が観客とシンクロしにくいという独特の断絶感がある。つまり、この映画の本質は「わからない」部分にあるのではないか。だからこそ面白く、それ故に「ヤバい」映画といえるのだ。
ものすごく乱暴な区分けとして、商業映画を「対・他者に向けた映画」、芸術映画を「対・自己に向けた映画」と仮定するなら(もちろんすべての映画がこれに該当するわけではない)、『ライトハウス』は完全に後者。『ウィッチ』にはまだエンタメ要素が多分に含まれていたが、本作からはそういった要素がほとんど感じられない。A24の手綱はあったにせよ、映画作家が「好き勝手にやった」タイプの作品なのだ。
『ライトハウス』(C)2019 A24 Films LLC. All Rights Reserved.
つまり、この映画における「なぜ?」を知りたければ、作り手そのものに飛び込んでしまったほうが早い。それもあって、冒頭でごく一部ではあるが、エガース監督の趣味嗜好を紹介させていただいた。彼のルーツは怪奇映画であり、魂は過去にあり、ひょっとしたらある種の神話性をたたえた物語への興味が強いのではないか……。このように、どこかプロファイリングじみたことを行わなければ、この怪作には太刀打ちできない。
例えば美術館を訪れ、展示されている作品の前に立ち、しばらく眺めたあとで「これは……どういう経緯で生まれたものなのだ? 作り手は何を考えているのだろう?」と首をかしげた経験が、誰しも多かれ少なかれあることだろう。『ライトハウス』を観た後のショックは、それに近いのではないか。
どこか、いやひょっとしたら全部かもしれないが「絶対に常人にはわからない」ブラックホールが口を開けて佇んでおり、その部分に軽い気持ちで踏み込むと「深淵を見つめ、見つめ返される」状態に陥ってしまう。ふたりの灯台守ではないが、気が狂ってしまうことだろう。つまり、「完璧にはわからない」という前提に立って観賞しなければ、船乗りを食らう人魚のごとき獰猛さの餌食となり、一瞬で取り込まれてしまう。