解釈の余白が豊かさを生む『エレナの惑い』
ズビャギンツェフは『エレナの惑い』(2011年)で初めて、オレグ・ネギンと共同でオリジナル脚本を執筆し、製作のアレクサンドル・ロドニャンスキーとも組んだ。手応えを得たのだろう、この体制をのちの『裁かれるは善人のみ』、そして『ラブレス』でも継続している。
第3作に登場するのは、モスクワの高級マンションに暮らす初老の資産家ウラジミルと、その再婚相手で元看護士のエレナ。家政婦のように扱われるエレナを通じて、経済的に豊かになりながらも男性優位主義が依然残るロシア社会で、苦しみもがく女性という存在を浮き彫りにする。さらに、エレナが生活費を工面している無職の息子夫婦の、薄汚れた産業地区に立地する手狭な団地での暮らしを対照的に示し、格差社会の現実と、盲目的な母の愛を重ねていく。
オープニングで世界が静かに目覚めるように風景のショットを提示し、エンディング(またはその近く)でも同様のショットを繰り返す手法は、以降の2作でも採用されている。こうした反復は、時の流れを思い出させると同時に、映画で起きた出来事が世界で繰り返されている普遍的な真実だと感じさせる効果も持つ。
惑いを経てエレナがとった行動により、終盤で家族に新しい状況がもたらされる。これは善なのか、悪なのか。映画は解釈の余白を残したまま幕を下ろす。ズビャギンツェフはこれこそが世界に豊かさを生む仕掛けだと心得ている。私たちは自問し続ける。あの家族はその後どうなるのだろう、自分があの家族の一員だったらどうしただろうか、と。