日常空間で不意に訪れる<死>
有名な話だが、かつて今泉力哉監督は、大阪NSCに26期生として1年間通っていたことがある(同期は和牛、かまいたち、藤崎マーケット etc)。だからなのか、彼の名前を一躍知らしめた『愛がなんだ』(19)にせよ、下北沢を舞台にした群集劇『街の上で』(21)にせよ、稲垣吾郎がフリーライターを演じる『窓辺にて』(22)にせよ、その作品にはオフビートなコメディ感覚がパッキングされている。もしくは、滑稽になりすぎないユーモア・センスと言うべきか。彼はいつだって、飄々とした手つきで人生の悲喜こもごもを軽やかに切り取っていく。
だが漫画『アンダーカレント』には、軽やかなタッチだけでは掬い取れない、どろりとした手触りの、黒くて淀んだ“塊”が沈殿している。登場人物たちが心の奥底にしまい込んだ、負の感情。ストレートに言ってしまえば、<死>の匂いが濃厚に立ち込めている。かといって、(ここがこの漫画のキモなのだが)とてつもなく暗い話という訳ではない。むしろ、変わり者として知られているサブ爺が、下着泥棒を捕まえようと奮闘する場面など、コメディ要素が強い場面もあったりする。
<生>の反転として<死>が存在するのではなく、<生>の薄皮一枚剥がしたその向こうに、<死>があるかのような感触。これを映像化するとなれば、筆致は軽やかでありながら、どこか冷え冷えとしたようなトーンが必要となるだろう。日常と非日常の狭間を行き交うような、細やかなチューニングが要求されるのだ。なかなかの難題である。
『アンダーカレント』 ©豊田徹也/講談社 ©2023 「アンダーカレント」製作委員会
しかしながら今泉監督はあくまで自然体に、<生>と<死>に関するテキストをさらりと描いてみせる。例えば映画の冒頭では、こんなテロップが映し出される。
undercurrent
1 下層の水流、底流
2 (表面の思想や感情と矛盾する)暗流
<暗流>とは聞き慣れない言葉だが、表面に現れない水の流れのことを指すらしい。そして映画は、かなえ(真木よう子)が銭湯に1人佇む場面へと切り替わり、おもむろに彼女は湯船の中に潜り込む。漫画原作をそのまま忠実に再現したシーンだが(というか、この映画はかなり全体的に原作に忠実に作られているのだが)、銭湯という日常空間で不意に<死>の影が訪れるという、『アンダーカレント』の本質を表したシーンになっている。それは、我が身を<底流>に浸す行為であり、彼女の心で渦巻く<暗流>とシンクロする。
このオープニング・シーン一つとっても、本作は「今泉監督が、新しいフェーズへと移行したことを高らかに宣言する映画」と言っていいのではないか。