2024.10.28
監督の視点が密かに込められた人物は?
群像劇、それもメインが7人ともなれば、多くの場合はキャラクターの“大・小”が生じる。特定の誰かに感情移入させることで作品への没入度を高めるためだが、『セント・エルモス・ファイアー』は、7人のドラマが満遍なく描かれることで、逆に“誰かに自分を重ねたくなる”という効果を狙い、そこが成功した。しかも一人のキャラクターに多面性を与えることで、ステレオタイプが避けられてリアルに共感してしまうのだ。
問題行動を起こすも根は優しいゆえに愛されキャラのビリーや、最も控え目に見えながらも愛する相手への想いは誰よりも強靭なウェンディ……というように、ストーリーに合わせてそれぞれの複層が浮き立つ、ある意味の常套手段が本作では奏功する。なかなか本意がつかめないジュールスが、クライマックスでその内面を顕(あらわ)にするのも、じつに映画らしい。
では作り手側の視点はどこにあるのか。あるいはどのように隠されているのか。脚本を共同で執筆したジョエル・シュマッカー監督は当時このように述べている。
「思い返せば学校を出たばかりの頃は、ほとんど狂気に近い時代だった。今その頃のことを書き留めておきたい欲求に駆られる。登場するキャラクターは、だいたいが我々の周囲でよく見かけるタイプばかりだ。ドラマの設定とエピソードも自分の記憶と印象を元に組み立てた。ここで描きたかったのは我々の世代のパッションと不安定さだ」(劇場パンフレットより)
シュマッカー監督は1939年生まれ。自身の学生時代となると1950〜60年代だが、本作の設定は製作と同じ80年代。時代は変わっても、この世代の関係性、感覚には普遍的なものがあるということだろう。シュマッカーはメイン7人に同等の愛情を注いで描きつつ、ある一人のキャラクターへのシンパシーを裏読みしたくなる。それはケヴィンだ。大学卒業後は死亡記事を書く仕事を得るも、いつか自分の書きたいものを世に送り出したいという彼の野心が、映画の世界に入って脚本も執筆するシュマッカーと近しいものがあるが、それだけではない。
『セント・エルモス・ファイアー』(c)Photofest / Getty Images
アンドリュー・マッカーシーが演じるケヴィンは、大学時代に恋人も作らなかったことから、仲間内ではゲイではないかと疑われる存在。しかし映画の後半で、何年もの間、レズリーのことを想い続けていたことが判明する。レズリーはアレックと同居しつつ、彼から結婚を迫られて戸惑っていたところ、ケヴィンの本心を知って3人の関係は複雑化する。結局、ケヴィンはゲイではなかったのだが、これが現在(2024年)の青春群像劇なら、7人いればセクシャル・マイノリティのキャラクターを1人くらい入れていたかも……と考えられる。
ジョエル・シュマッカー監督は『セント・エルモス・ファイアー』を撮った頃はそこまで知られていなかったものの、キャリアの初期にゲイであることを隠さなくなっていた。『バットマン フォーエヴァー』(95)でヴァル・キルマーのバットマンや相棒ロビンのスーツに乳首のような突起をデザイン。これは続くジョージ・クルーニーの新作でも受け継がれ、シュマッカーの“趣味”ではないかと騒がれた(後にデザイン担当が自身のアイデアだと証言)。
その後、シュマッカーはドラァグクイーンのキャラクターをメインで登場させた『フローレス』(99)のような脚本・監督作はあるものの、自身のゲイとしてのアイデンティティをそこまで作品で強調することはなかった。80歳でこの世を去るまでゲイとして堂々と生涯を送ったシュマッカーではあるが、『セント・エルモス・ファイアー』では、友人たちからゲイだと噂されるケヴィンの心情に、若い頃の自身を重ねたのではないだろうか。時代が時代だけに、そしてコロンビア・ピクチャーズというメジャースタジオ作品でその後のキャリアを賭けていたために、ケヴィンをヘテロセクシュアルに“落ち着かせた”のは必然だったのかもしれない。
ちなみにジョエル・シュマッカーはファッション工科大学、デザイン学校で学び、最初はブティックを開業。その後、化粧品会社のレブロンに入って同社のトップデザイナーとなる。そこからCMや映画の仕事に関わり、ウディ・アレン監督の『スリーパー』(73)や『インテリア』(78)などで衣装デザインを手がけた。『セント・エルモス・ファイアー』でカーボとケヴィンが同居するアパートの壁にはウディ・アレンのポスターが貼られているのは、シュマッカーの敬意の表れだろう。