会話劇としての“グルーヴ”
もうひとつ是枝版『阿修羅のごとく』で特徴的なのが、会話劇としての“グルーヴ”。特に四姉妹が集合するシークエンスでは、できるだけカットを割らず、めいめいが相手のセリフを食い気味に言葉を繰り出す超絶テンポで、高速ビートを刻んでいく。女優たちの芝居をたっぷりと堪能するというよりは、テクノ・ミュージックのヴァイヴスに身を委ねるがごとく、4人の丁々発止を愉しむ感じ…とでも言おうか。ここまでのグルーヴは、NHKドラマ版にも、映画版にもなかったものだ。
本作の撮影監督を務めているのは、『そして父になる』(13)、『海街diary』、『三度目の殺人』(17)など是枝作品常連の瀧本幹也。陰影の深いショットが特徴的だが、実は『阿修羅のごとく』はフィルムで撮影されており、しかもワンカメ。マルチカメラで撮影して、編集段階で画を選ぶのではなく、ひとつのアングル、ひとつの構図まで綿密に設計したうえで、撮影に臨んだのだ。カットをあまり割っていないのは、そんな撮影体制にも起因しているのだろう。長回し・長台詞の熱気が、こちら側にまで伝わってくるようだ。
Netflixシリーズ『阿修羅のごとく』
個人的な話で恐縮だが、筆者の母親は三姉妹の長女で、お正月に集まると3人は1秒たりとも無駄にすまいとばかりに、マシンガン・トークを繰り広げていた。子供ながらに「女性って無限に会話ができる生き物なんだなあ」と思ったものだ。宮沢りえ、尾野真千子、蒼井優、広瀬すずによる芝居は、筆者の幼少期を思い起こさせるほど、生々しいインプロヴァイゼーション感がある。
印象的なのは第一話の、滝子が皆を巻子の自宅に呼び寄せる場面。父の不倫という衝撃の事実を突きつけられても、綱子の差し歯がとれてしまったためにおかしな空気になって、地獄絵図が地獄絵図でなくなってくる。悲劇を喜劇に反転させるほどのパワーに、圧倒されてしまう。
悲劇は喜劇よりも偉大である。
粟か米か、是は喜劇である。
あの女かこの女か、是も喜劇である。
英語か独乙語か、是も喜劇である。
凡てが喜劇である。
最後に一つの問題が残る。
生か死か。
是が悲劇である。
第三話のラストでは、夏目漱石の小説『虞美人草』の一節が映し出される。生死の問題以外は、すべて喜劇。2025年に新しく蘇った『阿修羅のごとく』は、家族の呪いを笑って吹き飛ばす、四姉妹の有為転変ホームドラマなのである。
文:竹島ルイ
映画・音楽・TVを主戦場とする、ポップカルチャー系ライター。WEBマガジン「POP MASTER」(http://popmaster.jp/)主宰。
Netflixシリーズ『阿修羅のごとく』
Netflixにて独占配信中