『ANORA アノーラ』ゴッド・ブレス・アノーラ！アノーラに光のご加護を！

PAGES

2025.03.03宮代大嗣

ゴッド・ブレス・アノーラ！

　『ANORA アノーラ』の舞台となるブルックリン南部のロシア系移民たちが多く住むブライトンビーチやシープヘッドベイは、ブルーカラーの労働者階級のアパートと豪邸が同じブロック内に混在しており、ロシアとアルメニアとアメリカの文化が交錯する地域だという。この舞台は、ディズニーワールドのすぐ近くに住んでいながら、貧困のため“夢の国”に行けない『フロリダ・プロジェクト』の子供たちの環境とよく似ている。

　イヴァンの住む豪邸に両親の手下のロシア人とアルメニア人たちが現れたとき、イヴァンはアノーラを置いてほとんど半裸状態で逃亡する。ショーン・ベイカーによると、このエピソードはマフィアに人質にとられた妻をあっさり捨てた男性の実話を元にしているという。人質になった女性はストックホルム症候群のようにマフィアと心理的なつながりを築いたという。どこまでも軽薄な王子様イヴァン！　ここまで最低を突き抜けると、むしろ愉快に思えてくる。マーク・エイデルシュテインの空っぽの演技がひたすら輝いている。

　カンヌ国際映画祭の審査委員長を務めたグレタ・ガーウィグは『ANORA アノーラ』を讃える際、ハワード・ホークスやエルンスト・ルビッチが手掛けたスクリューボール・コメディと比較している。アノーラとイヴァンの豪邸を用心棒たちが訪ねる“家宅侵入”のシーンには爆発的なカオスがあり、スクリューボール・コメディのように楽しい。撮影に10日間をかけ、綿密に設計されたこのシーンは、『タンジェリン』のドーナツ店のドタバタ喜劇への回帰ともいえる。イヴァンを探す後半のロードトリップ自体が、あのドタバタ喜劇がいつまでも続くような、予測不能の騒々しさに溢れている。しかし夜の波止場の深い闇に消えていくようなアノーラの横顔、移動中の車の窓に映った彼女の美しい横顔には、普段の戦闘的なアノーラではなく、23歳の孤独な女性の肖像が浮かび上がっている。アノーラは世の中から使い捨てにされてしまうことの屈辱や恐怖を知っている。

　同様のことはアノーラに同行する3人組にも当てはまる。3人は仕事のため、自分の生活を守るためにイヴァンを見張っているだけであり、特に用心棒の2人は、自分たちが使い捨ての存在であることをよく知っている。だからこそ用心棒のイゴール（ユーリー・ボリソフ）はアノーラに同情の目を向ける。イゴールのアノーラへの思いは具体的な力になれるような連帯ではない。だがその気持ちが尊い。ストリップクラブの同僚が、イヴァンと結婚することになった幸せいっぱいのアノーラに無言の祝福をするシーンが忘れられない。彼女の目は涙で溢れていた。

　イゴールはアノーラの名前の意味を調べる。アノーラの名前は“光”や“明かり”を意味するという。アメリカでは名前なんかどうでもいいと、アノーラはイゴールを突き放す。イゴールに攻撃的になることで自分を守るアノーラ。しかし騒々しいパーティー＝戦いにもいつか静けさが訪れる。この映画のあまりにも美しいラストシーンを見たとき、裸になること以上に無防備なアノーラの姿を目撃したとき、私たちはアノーラの人生にやさしい光が降り注いでくれることを願わずにいられない。“親愛なるアノーラ、あなた自身がこの映画の光、私たちの希望だったよ”と伝えてあげたくなるのだ。ゴッド・ブレス・アノーラ！アノーラに光のご加護を！

*1 Interview Magazine [Mikey Madison Tells Isabelle Huppert How She Became Anora ]

*2 NPR [Sean Baker on writing and directing 'Anora']

文：宮代大嗣（maplecat-eve）

映画批評。「レオス・カラックス　映画を彷徨うひと」、ユリイカ「ウェス・アンダーソン特集」、リアルサウンド、装苑、otocoto、松本俊夫特集パンフレット等に論評を寄稿。

『ANORA アノーラ』を今すぐ予約する

作品情報を見る

『ANORA アノーラ』

全国ロードショー中

配給:ビターズ・エンドユニバーサル映画