
© 1971 Columbia Pictures Industries, Inc. All Rights Reserved.
『10番街の殺人』国家が奪った命の重みを問う、実録犯罪映画
「階段」を利用したサスペンス演出
リチャード・フライシャーは、ジョン・クリスティの冷酷極まりない犯罪を、緻密なカットの積み重ねによって描き出す。作品全体のトーンは静謐でありながら、底知れぬ恐怖をはらんだタッチ。過剰な演出は避け、淡々と事実を素描することで、ジョン・クリスティの異常な心理と、犯罪の残虐性が浮き彫りとなる。彼がベリルを手にかけるシーンを見てみよう。
妻のエセルを職場へ送り出したあと、彼は殺しの道具を手に取り、紅茶を淹れ、階段を上がってベリルの元に向かおうとする。この「階段を上がる」というアクションは、サスペンス映画において単なる空間移動以上の意味を持つ。画面が上へと移動するにつれて、「何が待ち受けているのか分からない」という不安が高まり、観客に危険を予感させるからだ。
『10番街の殺人』© 1971 Columbia Pictures Industries, Inc. All Rights Reserved.
“サスペンスの神様”ことアルフレッド・ヒッチコックは、階段を巧みに使いこなす天才だった。『サイコ』(60)でノーマン(アンソニー・パーキンス)が階段を上っていく場面は、まさにその象徴といえる。その先にある2階は、まだ見ぬ母親の狂気によって支配された領域。我々観客は、固唾を飲んでその展開を見守ることになる。
もしくは、『断崖』(41)。夫のジョニー(ケーリー・グラント)が自分を毒殺しようとしているのではないかと疑う、新妻のリナ(ジョーン・フォンテイン)。そして暗闇のなか、怪しく光る牛乳のグラスを持って、ジョニーは階段をゆっくりと上がっていく。一段一段が、彼女の疑念と恐怖を際立たせる。
『フレンジー』(72)では、連続殺人鬼のラスク(バリー・フォスター)が階段を上って、女性を2階の自室へと誘い込む場面が印象的だ。やがてカメラはゆっくりと階段を下り、玄関を抜けていく。凶悪な殺人が日常の風景の中に溶け込んでいく様子を暗示すると同時に、その階段が被害者にとって死へと続く一方通行の道=避けられない運命であることも示唆している。ヒッチコックは、階段が観客の恐怖心をあおるための絶好の舞台装置だと熟知していた。
リチャード・フライシャーも階段をサスペンスの道具として効果的に使いつつ、ちょっとしたカマシを入れてくる。ジョン・クリスティが階段を上がる途中、突然ベルが鳴るのだ。ゆっくりと振り返るその顔の上半分は、影に沈んでいる。つまり、彼はまだ完全に闇に支配されていない。彼は階段を下りて光のなかへと戻り、ドアを開ける。そこにいたのは修理工たち。追い返すわけにもいかず、ジョン・クリスティは彼らを招き入れる。
真昼間に、複数の部外者がいるという状況は、どう考えても殺しの現場として不向きだ。ジョン・クリスティに、困惑した表情が広がる。最悪の事態は避けられた…そう我々観客がほっと胸を撫で下ろしたのも束の間、ベリルが階段から「まだ?(修理工が来ても)いいでしょう?」と彼を“手招き”する。避けられない運命。奈落への道。この瞬間、彼女の未来は閉ざされた。
再び階段を上るジョン・クリスティの顔は、完全に影に覆われている。ベリルが部屋のブラインドを下ろす。「真昼間に、複数の部外者がいる」1階とは打って変わって、上の階では「暗い室内で、殺人鬼とベリルが2人きりになる」という状況が生み出される。優美で流麗なヒッチコック演出とはまた異なる、リチャード・フライシャーの冷徹なリアリズム描写が際立つ。