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『エディントンへようこそ』同じ現実を生きていない時代のネオ西部劇
2025.12.17
法のないデジタル・フロンティア
「『エディントンへようこそ』のスマホ画面は、すべて“扉”なんだ。法のないデジタル・フロンティアへの入口だ」(*1)
アリ・アスターのこの言葉は、『エディントンへようこそ』がネオ西部劇として設計されていることを端的に言い表している。かつて西部劇において、扉や窓は単なる背景美術ではなく、世界の在り方そのものを規定するフレームだった。とりわけジョン・フォード作品では、それらは「共同体の内部」と「荒野としての外部」を隔てる境界であり、法と無法、秩序と混沌を分ける視覚的装置として機能してきた。
その象徴的な例が、『捜索者』(56)のラストショットだろう。荒野を彷徨い続けた主人公イーサンは、最後に家の扉の前に立つ。カメラは室内から外を捉え、扉枠によって荒野がひとつのフレームとして切り取られる。家族は内部へと戻り、扉は静かに閉じられ、イーサンだけが外に取り残される。この構図は、彼が共同体に回収されない存在であることを示すと同時に、荒野という外部が、なおひとつの地平として共有されていることを意味している。
重要なのは、フォード的西部劇において、外部は排除され得ても、現実そのものは分断されていなかった点だ。扉は世界を切り分けるが、世界を複数にはしなかった。内と外は対立していても、同じ荒野、同じ現実を見ていた。アリ・アスターは、そのフレームをスマートフォンの画面へと置き換える。それは、アルゴリズムによって細分化された無数の現実へと接続する入口であり、共通の法も、共有された秩序も存在しない場所へ人々を導く。そこは、誰もが自分なりの正義を振りかざしながら、他者の現実に到達できない、法なきデジタル・フロンティアだ。

『エディントンへようこそ』© 2025 Joe Cross For Mayor Rights LLC. All Rights Reserved.
本作において、人物たちは同じ町に生き、同じ出来事を経験しているはずなのに、見ている世界が異なっている。スマホという扉を通じて、それぞれが別の現実へと踏み込み、その結果、かつて西部劇が前提としていた「共有可能な荒野」そのものが失われてしまった。この意味で『エディントンへようこそ』は、銃の代わりにスマホのスクリーンが支配する西部劇であり、決闘の代わりに言説が撃ち合われる時代の寓話として更新されている。そこでは勝敗は身体ではなく、可視性と拡散力によって決まる。
かつての西部劇が「誰が法を体現するのか」をめぐる物語だったとすれば、本作が描くのは、「法や現実について合意する地平そのものが消失した世界」だ。アスターはこの感覚を、説明としてではなく、観客の身体感覚に刻み込もうとしているのだろう。彼はこう語っている。
「この映画で、無意識レベルで感じてほしいことがある。それは、スマートフォン――単なるSNSだけでなく――その中毒性だ。これは無垢な副作用ではない。SNSがどのように利用されているかという問題だ。道具であり、巨大な権力によって使われている。その感覚を、映画の骨の中に刻みたかった」(*2)
『エディントンへようこそ』は、単にアリ・アスターが社会へと関心を移した作品ではない。彼は依然として、不安と恐怖を描き続けている。ただしその対象が、個人の内面から、現実そのものへと移行しただけ。本作は、時代の症状として位置づけられるべきフィルムである。
(*1)https://letterboxd.com/journal/eddington-ari-aster-interview/
(*2)https://www.theaureview.com/watch/interview-ari-aster-eddington/
文:竹島ルイ
映画・音楽・TVを主戦場とする、ポップカルチャー系ライター。WEBマガジン「POP MASTER」(http://popmaster.jp/)主宰。
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『エディントンへようこそ』
TOHOシネマズ 日比谷ほか全国公開中
配給:ハピネットファントム・スタジオ
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