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『エディントンへようこそ』同じ現実を生きていない時代のネオ西部劇

© 2025 Joe Cross For Mayor Rights LLC. All Rights Reserved.

『エディントンへようこそ』同じ現実を生きていない時代のネオ西部劇

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“名前”という決められたアルゴリズム



 物語の舞台は、ニューメキシコ州の小さな町エディントン。パンデミックによって日常が揺らぐなか、保安官のジョー(ホアキン・フェニックス)は、再選を目指す現職市長テッド(ペドロ・パスカル)と対立し、自ら選挙に出馬することを決断する。


 一方、ジョーの妻ルイーズ(エマ・ストーン)は、カルト集団の教祖ヴァーノン(オースティン・バトラー)が発信する陰謀論にのめり込み、その母ドーン(ディードル・オコンネル)もまた、不安と猜疑を煽る言説に引き寄せられていく。疑いと憤怒が連鎖し、批判と陰謀が真実を覆い尽くすなかで、エディントンの町は静かに、しかし確実に破滅へと傾いていく。


 この物語の舞台が、アメリカ南西部・ニューメキシコである点は重要だ。西部開拓神話の終端に位置し、法と無法、秩序と混乱がせめぎ合ってきたこの土地は、歴史的に「正しさが個人の判断に委ねられてきた場所」でもある。『エディントン』は、そうしたフロンティア的条件がデジタル時代に再来した世界を、アメリカ全体の縮図として描き出す。


 登場人物の名前もまた、映画の主題を裏側から補強している。主人公ジョー・クロス(Joe Cross)という名は、犠牲や救済を想起させる十字架(Cross)の響きを持つ一方で、選択と分岐が交わる交差点(Crossroad)を連想させる。彼は自分を「守る側」「犠牲を引き受ける側」だと信じているが、その信念は次第に反転し、他者を犠牲にする側へと踏み込んでいく。


 クロスという姓の宗教的含意に対して、ジョーという名はあまりにもありふれている。Average Joe(特別ではない男)やJoe Public(どこにでもいる市民)という言い回しが示すように、それは匿名的な「普通の市民」の記号だ。だからこそ彼は狂人ではなく、正義を疑わない平凡な存在として描かれる。ジョー・クロスという名前は、「正しい側にいると信じたまま、社会の分岐点に立たされてしまった人物」を端的に示している。



『エディントンへようこそ』© 2025 Joe Cross For Mayor Rights LLC. All Rights Reserved.


 対する現職市長テッド・ガルシア(Ted Garcia)は、「神の贈り物」を意味する名に由来するTedと、ヒスパニック系に多いGarciaという姓を併せ持つ。制度的な正しさと、スペイン植民地時代から続く多文化的背景を同時に背負うその名前は、彼が合理的で進歩的である一方、必然的に反発を引き受けてしまう存在であることを暗示している。


 ルイーズ(Louise)という名も逆説的だ。語源的には「名高き戦士」を意味する Louisの女性形に由来するが、彼女はその名が示すような闘争性を引き受けることはない。社会が複雑化し、対立が絶えない世界で、その緊張に耐えきれなくなった彼女は、単純で、分かりやすく、感情的に安心できる物語=カルトへと導かれていく。彼女は現実社会に疲弊したキャラクターなのだ。


 そして、カルト指導者ヴァーノン(Vernon)。その響きはveracity(真実性)や verify(事実を確認する)を思わせる音を含み、まるで真実に触れているかのような錯覚を与えるが、あくまで彼が提供するのは真実“らしさ”。安っぽい言葉で大衆を扇動する、ニセ預言者に過ぎない。恐怖や怒りを言語化し、方向づける役割の彼は、むしろ「誰でもなり得る空気の翻訳者」、すなわちSNSアルゴリズムの擬人化として読める。


 『エディントンへようこそ』の登場人物たちは、物語を動かす主体である以前に、すでに意味を帯びた名前として配置されている。彼らは選択する前から、社会の力学のなかに置かれている存在なのだ。





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