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『恋愛裁判』愛することは、なぜ社会に捕獲されるのか?

©2025「恋愛裁判」製作委員会

『恋愛裁判』愛することは、なぜ社会に捕獲されるのか?

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「恋愛禁止」と構造的な無関心



 本作の起点は2015年、深田監督があるニュース記事を目にしたことに遡る。それは、アイドルがファンと交際したことを理由に所属事務所から損害賠償を請求され、裁判所がその訴えを認めたという実際の出来事だった。


 「恋愛禁止」が単なる暗黙の了解ではなく、契約書に明記され、それを破れば法的に裁かれる対象となる。この事実に、監督は強烈な違和感を抱いたという。「アイドルにとって恋愛はご法度」という日本社会の常識が、一歩引いて見ればいかに異様であり、個人の人権を脅かすものであるか。この衝撃が出発点となり、脚本開発と取材に10年もの歳月が費やされた。


 物語の主人公は、人気急上昇中のアイドルグループ「ハッピー☆ファンファーレ(ハピファン)」のセンター、山岡真衣(齊藤京子)。彼女は中学時代の同級生・間山敬(倉悠貴)と再会し、恋に落ちる。しかし、ある事件をきっかけに衝動的に彼の元へ走ったことで、事務所から恋愛禁止条項違反で訴えられてしまう。


「恋愛禁止の欄について、認識はされていましたか?」

「恋愛がどういうものかも、全然イメージできていなかったと思います」


 裁判官の問いかけに、真衣はこう答える。恋愛の実体さえ知らぬまま、その権利を放棄する契約を結ばされていたという、残酷な事実。大人たちは、子供がまだ出会ってさえいない未分化な感情を、それが芽吹く前から「禁止」という枠組みで先回りし、奪い取っていたのだ。



『恋愛裁判』©2025「恋愛裁判」製作委員会


 対して、マネージャーの矢吹早耶(唐田えりか)は、「ファンはアイドルに恋をしています。恋愛禁止は当然のルールだと思います」と毅然と語る。元アイドルでもある彼女は、個人の感情を殺して偶像(アイドル)に徹することこそが美徳であり、誠意だと信じて疑わない。それは、業界の論理を完全に内面化した者の言葉だ。しかし映画は、美しいとされるプロ意識の皮を剥ぎ、それが人間から人間らしさを搾取するシステムなのではないかと、静かに問いかける。


 筆者が個人的に目を見張ったシーンがある。真衣たちが弁護士と面談するために訪れた会社で、社員(だと思われる人物)が楽しそうに卓球に興じているのだ。一人の女性が人生を左右する訴訟や叱責のために呼び出されている、そのすぐ傍らで、大人たちが無邪気にピンポン球を打ち合っている「当事者の深刻さ」と「周囲の大人たちのお気楽さ」を対比させる、残酷なコントラスト。


 大人たちは、奥の部屋で裁かれる真衣の痛みなど見ていないし、見ようともしない。アイドルを商品として消費する組織において、個人の感情に対する構造的な無関心が、あの軽快なラリーの音に集約されているようで、筆者は背筋が凍る思いがした。安易なステレオタイプを排し、映画的な知性で残酷さを浮き彫りにする、深田監督の演出手腕たるや!


 とはいえ、この映画は単純な「悪徳事務所 vs 可哀想なアイドル」という二項対立の図式に陥らせない。深田監督は取材を通じ、アイドル業界を社会悪として断罪するのではなく、そこに生きる人々の論理や、ファンとアイドルの共犯関係のような複雑な構造をあぶり出すことに注力している。


 『淵に立つ』でも『よこがお』でもそうであったように、深田は決して特定の個人を悪人として描くことはしない。それこそが、深田晃司という作家の誠実さであり、同時に恐ろしさでもある。




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