重力からの解放、魂の奪還
真衣が惹かれる間山が大道芸人であることは、極めて示唆的だ。彼は、契約やルールでガチガチに固められたアイドルの対極にいる。組織に属さず、路上というパブリックな場所で、たった一人で身体を張って生きている。そして何より象徴的なのは、彼がパフォーマンスのなかで、まるで魔法のようにふわりと空に浮かび、地上にいる真衣を見下ろすシーンだ。
ここで描かれる対比は、あまりにも残酷。アイドルという職業は、夢や希望を売る存在でありながら、その実態は「恋愛禁止条項」や「損害賠償」といった、極めて現実的で重たい社会の重力に縛り付けられている。真衣は、契約書という鎖で地面に縫い留められた存在なのだ。
対して間山は、物理法則さえも無視するかのように、軽やかに宙を舞う。彼は、真衣がどれだけ手を伸ばしても届かない、重力からの解放を体現しているかのよう。真衣が彼に惹かれたのは、自分を窒息させようとするシステムの外側にいて、ここではない何処かへ飛んでいける、自由な魂に見えたからではないか。

『恋愛裁判』©2025「恋愛裁判」製作委員会
とはいえ深田晃司はこの映画を、ロミオとジュリエット的な悲恋ロマンスには着地させない。むしろ、彼が用意したのは、真衣がアイドルという虚像(イメージ)を脱ぎ捨て、一人の生身の人間として自身の輪郭を取り戻していく、極めて内省的な闘争の記録だ。
劇中、大人は繰り返す。「自分で選んだ道でしょう?」と。確かに彼女は契約書にサインをした。しかし、周囲の期待、ファンの視線、業界のルールといった強固なシステムによって巧みに誘導された選択を、果たして純粋な個人の自由意志と呼べるのか。深田監督は、社会が「自己責任」という言葉で隠蔽してきた構造的な暴力性を、法廷という場を使って冷徹に暴き出す。
だからこそ、映画の終盤、真衣が辿り着く答えには胸を打たれる。それは誰かに言わされた謝罪の言葉でも、テンプレート通りの優等生なコメントでもない。傷つき、迷い、それでも自らの足で立つことを選んだ人間だけが獲得できる、不器用で、しかし強靭な“自分の言葉”だ。この結末は悲劇ではなく、一人の人間がシステムから魂を奪還する、ささやかだが力強い物語として響く。
だからこそ本作は、アイドル映画の皮を被った、私たち自身(=社会)の“見る責任”を問う鏡でもある。『恋愛裁判』は、現代を生きる人々に突きつけられた、逃げ場のない召喚状なのだ。
文:竹島ルイ
映画・音楽・TVを主戦場とする、ポップカルチャー系ライター。WEBマガジン「POP MASTER」(http://popmaster.jp/)主宰。
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配給:東宝
©2025「恋愛裁判」製作委員会