1. CINEMORE(シネモア)
  2. 映画
  3. ブゴニア
  4. 『ブゴニア』誤った物語を信じて傷つけあう人類へ捧ぐ、滑稽なレクイエム ※注!ネタバレ含みます
『ブゴニア』誤った物語を信じて傷つけあう人類へ捧ぐ、滑稽なレクイエム ※注!ネタバレ含みます

© 2025 FOCUS FEATURES LLC.

『ブゴニア』誤った物語を信じて傷つけあう人類へ捧ぐ、滑稽なレクイエム ※注!ネタバレ含みます

PAGES


死に絶えた対話と『エディントン』との共鳴



「どんな物語を語るにしても、人が自分自身や他者とどう関わり、その相互作用が人間性にどう影響するかに興味がある。(中略)同じ言葉を使っていても、意味しているものは全く違う。特にテクノロジーの進化によって、言葉を消費するスピードが上がり、意味がどんどん抽象化されていくんだ」(*1)


 ヨルゴス・ランティモスがそう語る通り、この映画の最大の悲劇は、言葉がもはやコミュニケーション・ツールとして機能していないことにある。拉致されたミシェルは、フォーブスやTIMEの表紙を飾るカリスマ経営者らしく、冷静に対話を求め、多様性や公平性といった美しい言葉を巧みに並べていく。


 しかし、強者が弱者に強いる議論は、単なる時間稼ぎの嘘に過ぎない。社会から見捨てられたテディにとって、彼女の洗練された言葉は、現実の苦しみを覆い隠すためのノイズであり、絶望を深めるだけの空虚な響きでしかないのだ。ジェシー・プレモンスとエマ・ストーンは、この関係性を「決まりきった反応の応酬」(*2)と表現している。二人は互いの言葉を聞いていない。相手が話し終えるのを待ち、あらかじめ用意された自分の台詞を吐き出すだけ。そこにあるのは、自動化されたロボットのような会話劇だ。



『ブゴニア』© 2025 FOCUS FEATURES LLC.


 この絶望的なすれ違いは、本作の企画を持ち込んだアリ・アスターの『エディントンへようこそ』(25)と、不気味なほど響き合う。「(スマホ画面は)法のないデジタル・フロンティアへの入口だ」(*3)とアスターが語る通り、人々は手のひらのデバイスを通じて、細分化された「自分だけの現実」へと閉じこもっていく。


 同じ町に住み、隣り合って暮らしていても、見ている風景(タイムライン)は決定的に異なり、互いの心に触れることはない。テディとミシェルがロボットのように言葉を空転させていたのと同じく、『エディントンへようこそ』の住人たちもまた、それぞれの正義や陰謀論というプログラムに動かされ、他者不在のまま破滅へと向かっていく。


 言葉が通じないのではない。そもそも、言葉を交わすための前提となる“同じ現実”が存在しないのだ。『ブゴニア』と『エディントンへようこそ』は、コミュニケーション不全を個人に押し付けるのではなく、我々が生きる社会そのものが抱える「修復不能なシステムエラー」として描いている点で、双子のような関係にあると言える。


 両作に出演しているエマ・ストーンの存在が、その共鳴をさらに決定づける。『ブゴニア』では陰謀論の標的となるCEOを演じた彼女が、『エディントンへようこそ』では、夫を捨てて陰謀論を唱えるカルト教祖のもとへと走る妻を演じていた。被害者と加害者、論理と狂気。彼女が演じた二つの役柄は、合わせ鏡のように反転しながら、どちらも“現実の喪失”という同じ穴に落ちていく。


 エマ・ストーンという俳優の身体を通して、二つの映画は2025年という分断の時代を挟み撃ちにしていると言えるかもしれない。




PAGES

この記事をシェア

メールマガジン登録
  1. CINEMORE(シネモア)
  2. 映画
  3. ブゴニア
  4. 『ブゴニア』誤った物語を信じて傷つけあう人類へ捧ぐ、滑稽なレクイエム ※注!ネタバレ含みます