人間を信じる映画
『ぐるりのこと。』で最も名高いハイライトは、台風の一夜の場面だろう。迫る風雨の中、部屋にいた小さな蜘蛛をカナオが金閣寺のプラモデルで何気なく潰した瞬間、翔子の張り詰めていた感情が一気に爆発する。地団駄を踏み、泣き叫ぶ翔子の声を聞きつけて、隣人(江口のりこ)が「ちょっと静かにしてくれません!?」と怒鳴り込んでくる。空気は一触即発になるが、カナオはただ必死に頭を下げ、翔子の混乱をまるごと受け止めようとする。そのとき彼が口にする、世間の表面的な“正しさ”から大きく外れた慰めの言葉が、絶望の底にいた翔子の心をふっと緩める。撮影は名手・上野彰吾。長回しで捉えられたその瞬間には、カナオの根源的な人間信頼に基づく深い肯定感と、ふたりの関係の温度、そして橋口亮輔が追い求める“生の熱”が宿っている。「ちゃんとせんでもいい。一緒におってくれ」――カナオが呟く翔子への愛の言葉が、祈りのようにじんわり伝わる。夫婦の絆の描写として高く評価される所以であり、役者の感情の爆発をその場の空気ごと掴み取った映像は、偽りのない生の熱量をスクリーンに焼き付けている。
パートナー同士として真正面から気持ちをぶつけ合ったふたり。翌年、翔子は尼寺に通うようになり、少しずつ精神の落ち着きを取り戻していく。やがて住職(高橋かすみ)から「描くのも技術なら、生きるのも技術なんだから」という言葉をいただき、本堂の天井画を依頼される。翔子は若冲の画集を開き、久しぶりに絵の具を選び、自分の描きたい色を探し始める。さらにはベランダに小さな菜園を作り、熟れたトマトを描き、食べ、カナオにも食べさせる。「うん、命の味がする」。この一言に映画のエッセンスが宿っているのかもしれない。生活が再び動き始める。

『ぐるりのこと。』©2008 『ぐるりのこと。』プロデューサーズ
天井画が完成し、寺の床にふたりが横たわる。カナオが翔子の手を握り、翔子も握り返す。その静けさの中で我々は気づく──この映画は絶望の物語ではなく、希望を掬い上げる物語なのだと。ちゃらんぽらんのようで、どこか賢者の匂いを漂わせるカナオはこう言う。「かっこ悪くても、生きてるだけで大したもんじゃないですかね」。『ハッシュ!』も『ぐるりのこと。』も、ラストがそっと外に開いていく。世界へ向かう息づかいで終わるからこそ、二本どちらも“人間賛歌”として響く。
2026年のいま、『ぐるりのこと。』の“人間を信じる力”は、時代をまたいでなお揺るぎなく胸に届く。夫婦の物語であり、社会の物語であり、橋口亮輔という映画作家が“絶望から希望へ向かう道”を見つけた記録でもある。人を信じることが難しくなった時代にこそ、この映画の光は観客の心に確かなぬくもりを残す。ちなみに音楽を手掛けたのは、以降の橋口作品を支えるAkeboshi。起用の理由は、彼がアニメ『NARUTO -ナルト-』のエンディングテーマを担当しており、橋口自身が『NARUTO -ナルト-』に夢中だったからだという。そんな微笑ましい逸話まで含めて、この映画はすべてが人間の温度でできている。
映画評論家、ライター。1971年和歌山生まれ。著書に『シネマ・ガレージ~廃墟のなかの子供たち~』(フィルムアート社)、編著に『ゼロ年代+の映画』(河出書房新社)ほか。「週刊文春」「朝日新聞」「キネマ旬報」「シネマトゥデイ」「Numero.jp」「Safari Online」などで定期的に執筆中。YouTubeチャンネル「活弁シネマ倶楽部」でMC担当。
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シネマート新宿、シネスイッチ銀座、渋谷ホワイトシネクイントほか全国順次公開中
配給:ビターズエンド
©2008 『ぐるりのこと。』プロデューサーズ