閉鎖された共同体の不健全を描く
物語において、“顔”というものはしばしば欺瞞の象徴として扱われる。美しい顔の裏には醜い内面があり、醜い外見の奥には美しい魂がある……。こうした、本当に大事なのは外見ではないというメッセージを含んだ寓話は無数に存在する。目の見えない人物だからこそ、惑わされずに相手の内面を真に評価できるのだと。この構図を反転させているのが、本作の画期的な部分である。顔を見ることができないからこそ、周囲の言葉に惑わされるのだ。
それは、目の見える周囲の人々にも共通している。彼らはヨンヒを見ているようでいて、実際には「醜い女」という共同体が作り出した記号を見ているにすぎない。つまり、この映画で顔を覆い隠しているのは言葉なのである。家族が「醜い」と言い、職場でもそう言われ、周囲の誰もがそう語る。その評価が繰り返されるうちに、「醜い」という評価は誰も深く検証しない“事実”へと変わっていく。

『顔 -かお-』ⓒ 2025 WOWPOINT, ALL RIGHTS RESERVED.
もし劇中に一人でも「いや、彼女は醜くなかった」と証言する人物がいれば、観客は真相を察し、「彼女は偏見の犠牲者だ」と全体像をすぐに理解できたかもしれない。だが、ヨン・サンホはそうした逃げ道を用意せず、観客をも劇中の共同体の認識に巻き込んで、物語を進行させていくのだ。
意外なのは、最後のシークエンスの中で写真を通し、観客に“顔”を見せてしまうシーンだ。そこに現れるのは、少なくとも劇中で投げつけられ続けた「醜い」という言葉にはそぐわない容貌。ここで、「誰が見ても美しい女性」という分かりやすい反転的な演出を、ヨン・サンホは用意していない。だが、劇中で彼女を知る人々が語ってきた評価が偏ったものであったことは明らかになるのである。
顔は人間の表層とされ、本質を表していないものと考えられている。しかしこの映画では、ヨンヒが敵対することになる横暴な権力者や、コミュニティの判断に左右される人々の価値判断の方が大きく歪んでいるため、逆にそのままの“顔”の方が真実に近いという構図が生まれてしまっている。
この問題は、いわゆる“ルッキズム”のみに限定されるものではない。これまでヨン・サンホが一貫して描いてきたのは、閉鎖された共同体の不健全と、それがどのように個人を押し潰そうとするのかという話である。それが、最もシンプルで直接的なかたちで描かれたのが、本作なのではないだろうか。