2026.10.15
台本に書き込まれた批評
このシステムには、評論家も含まれている。もちろん、棚氷を崩落させた石油王と、試写室に通う評論家とでは、背負う責任の重さはまるで違う。それでも、外側に立っていないという点では同じだ。評論家は作品を外から分析し、評価する(少なくとも、そう思われている)。けれど実際には、試写会に招かれ、取材の場で監督の言葉を受け取り、それを記事にしている。自分は外側に立っている……そう思い込んでいること自体が、批評家の死角なのかもしれない。
思えばイニャリトゥは、ずっと「批評」と格闘してきた作家だ。『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』(14)では、主人公の舞台を叩き潰すと宣言した演劇評論家が最後に称賛の劇評を書き、その見出しが映画の副題 “The Unexpected Virtue of Ignorance” と重なる。『バルド、偽りの記録と一握りの真実』(22)では、監督の分身のような主人公が、かつての同僚のテレビ司会者から独りよがりだとなじられる。作品の外に立つ敵だった批評家は、やがて作り手の内側に入り込み、『ディガー』ではついに、映画を語る我々全員になった。
批評を取り込む力は、作品の外側にまで及んでいる。本作の宣伝は、酷評すら宣伝材料に変えてみせた。公開後に流れたCMでは、「傑作」と「不快」、「最高」と「困惑」、「圧巻」と「苦痛」といった賛否の言葉が交互に映し出され、最後にディガーが「俺は真実を語る」と一蹴する(*5)。褒め言葉も貶し言葉も、等しく宣伝の材料になる。

『DIGGER/ディガー』© 2026 WBEI and Legendary
だから、この映画はとてつもなく語りにくい。謎を読み解いてみせれば、得意げな「掘る人」として笑われる。風刺の鋭さを褒めれば、「わかっている側」でいたい観客の優越感そのものだ。退屈だ、独りよがりだと貶せば、図星を突かれた者の反発と受け取られかねない。資本の矛盾を突いても、「そういうお前もシステムの中だろう」と返される。どの角度から何を言っても、その言葉はまるで最初から台本に書き込まれていた台詞のように、映画の中にすっぽりと収まってしまう。
これは、批判を真正面から受け止めているということでもある。観客の優越感という、批評する側がいちばん認めたくない快楽まで、本作は自らの標的にしているのだから。けれど同時に、どんな批判にも「それこそ狙い通り」と言い返せてしまう点で、批判をはね返す分厚い鎧にもなっている。開かれているようで、どこにも隙がない。評論家たちの言葉が激しくなるのも、何を投げても届かない相手への苛立ちなのかもしれない。その鎧の分厚さこそが、『ディガー』の魅力であり、危うさでもある。
そしてこのレビュー自体もまた、例外ではない。「この映画は語りにくい」と書くことすら、とうに想定済みなのだろう(イニャリトゥめ!!)。それでも筆者は、この映画について書くことをやめることができない。思いっきりシステムの恩恵を受けていることを、システムの内側にいることを引き受けたうえで、言葉を紡がなくてはいけない。
スクリーンが暗転しても、この映画は終わらない。語る我々の言葉を燃料に、いまも燃え続けているのだから。
(*1)https://www.rottentomatoes.com/m/digger_2026
(*2)https://www.rogerebert.com/reviews/digger-tom-cruise-alejandro-gonzalez-inarritu-film-review-2026
(*3)https://www.thewrap.com/creative-content/reviews/digger-review-tom-cruise/
(*5)https://youtu.be/Llsd3MJvvho?si=8PYVdrjz07dbuuPJ
文:竹島ルイ
映画・音楽・TVを主戦場とする、ポップカルチャー系ライター。WEBマガジン「POP MASTER」(http://popmaster.jp/)主宰。
『DIGGER/ディガー』
全国ロードショー中
配給:東和ピクチャーズ 東宝
© 2026 WBEI and Legendary