ロビンの才能に着目していた鬼校長
そんなロビンの才能に誰よりも着目していたのは、皮肉にも、劇中でキーティングに退校を命じる学園長、ノーランを演じるベテラン俳優のノーマン・ロイドだった。ジュリアードの創設メンバーで俳優のジョン・ハウスマンとは、独立系演劇集団、マーキュリー劇場を共に立ち上げた同志でもあったことから、ロイドは親友の門下生との共演を心待ちにしていたという。ロイドは半ば驚きつつこう後述している。「ロビン・ウィリアムズとイーサン・ホークやジョシュ・チャールズ等の関係は、まさに映画での彼らの関係そのものだった。それは嘘ではない。そして、ウィリアムズは間違いなく才能あるシリアスアクターだと確信した」と。さすがにアメリカ演劇界の重鎮の言葉には重みがある。
スタンダップコメディと悲しげな瞳の関係
そして、これだけははっきりと言える。意に沿わない決断を迫られ、真剣に思い悩む教え子の様子に人知れず不安を覚えるとき、学園内で起きた不幸な事件の責任を自ら感じたとき、そして、生徒たちに自分の教えが伝わっていたことを知ったときですら、"ロビン・キーティング"の青い瞳の奥には、いつも隠しようのない深い悲しみが横たわっているのだ。それは、ベトナム戦争の残虐さを垣間見る米軍DJに扮した『グッドモーニング、ベトナム』(87)でも、ニューヨークの浮浪者を演じた『フィッシャー・キング』(91)でもそうだったし、その瞳は、家政婦に変装し、離婚した妻の下で暮らす我が子に会いに行く父親の奮戦を描いた『ミセス・ダウト』(93)でも、凝った特殊メイクの奥で物悲しい光を放っていた。むしろ、コメディの時の方が悲しさが強調されてはいなかっただろうか。
笑いの中から、悲哀がこぼれ落ちる。それは、俳優を続けながらスタンダップコメディアンとしてナイトクラブを巡業し、瞬間的に笑いをとるか、受けずにその場を凍り付かせるか、つまり、生きるか死ぬかの現場を果敢に潜り抜け生きた天才が知らず知らずのうちに身に付けた、習性だったのかも知れない。ファンにとっては一瞬で笑いをとった後、直後に押し黙る、まるでアクセルと急ブレーキを交互に踏むようなトークスタイルこそが、彼の魅力だったし、笑いと悲しみが相半ばする数々の主演映画に、大いに笑い涙したものだ。